この文章が述べているのは、どのような問いに対する答えなのか?
「環境保護のために人間には何ができる・すべきか?」といった問いも挙がった。この問いの答えによってこの文章の主旨が表現できるか?
答えをどう想定しているのかと聞いてみると「動的平衡の考え方を理解する」というような答えが挙がったが、これは「動的平衡とは何か?」が「~とは何か?」型の問いとしてはまあ一番良いだろ、といったやりとりに影響されている。
あるいは「生物多様性を守ること」といった答えはとても真っ当だが、これは最初の、題名をそのまま問いとして立てた時とそれほど変わらない把握に終わってしまう。そりゃそうだ、という感じ。
総じて中学校の教科書に載っているのは「説明文」、高校の教科書に載っているのは「評論」と言われる。その違いは、どれほど筆者の主張が入っているかだ。説明文は何が書いてあるかを正確に読み取ることが要求され、評論では筆者の考えを(ある時には批判的に)読み取ることが要求される。
「生物の多様性とは何か」を評論と見なすならば「生物の多様性を守るべきだ」が「筆者の主張」と言ってもいい。だが、そんな主張は自明のことで誰も反対はしないから、あらためてそうした主張をこの文章から読み取ることにそれほど意味はない。
あるいは収録部分の末尾「パラダイム・シフトを考えねばならない」を主張だと見なすことはできるが、これはつまり「何をすべきか?→動的平衡の考え方を理解すべき」ということになり、まだ全体の主旨を捉えているというにはイマイチ。
一方で科学説明文と見なしたとき、読者は何を「説明」されていると見なせばいいか?
一つには上記の「動的平衡」だが、「動的平衡」の概念を理解すればこの文章の主旨を捉えたことになるかといえば上の通りまだ不十分だ。
さてでは。
元々は題名の「生物の多様性とは何か」がイマイチ、と思って考え始めたのだが、まずは素直にこの題名を使うのが発想しやすいはずだ。
なぜ生物の多様性が必要・大事か?
これは、生物の多様性は大事だという一般常識に対して、ホントにその意味がわかってる? という問いを読者に投げかけているのだと考えられる。
さてこの答えは?
短い答えと長い答えを考えよ、と指示した。短いのは本文中にある。
地球環境という動的平衡を保持するため
これを長くしようとすれば、「動的平衡」という概念について説明し、それを保持することと「生物多様性」の関係を説明し…、ということになる。そうなればもうこの文章の主旨は充分に捉えられていると言って良い。
つまりこの文章は、生物学者による科学読み物として、説明文的に読んでもいいのだ。読者としては「動的平衡」という考え方を理解し、「生物の多様性の重要性」についてあらためて認識を確かにすることが求められている。
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