2022年9月1日木曜日

夏季休暇課題

 夏休みの宿題は、まあ漢字テキストなんかは自主的に進めていることを信じるとして、提出を求めたのは「『〈私〉時代のデモクラシー』『空虚な承認ゲーム』と4,5月に読んだ9本の文章のいずれかの論旨の関連を600字以内でまとめる」だった。みんなどれくらいの時間をかけて取り組んだのだろうか。授業である程度は読み込んである文章だとはいえ、自分でもう一度文章にまとめるのは、相当に手応えがあったと思う。

 提出された課題は、クラスを入れ替えて生徒自身が相互評価した。これもまた、集中力を必要とする、難しい課題だったと思う。

 評価を他人任せにせず、自分の生み出したものを自分で評価する意識を持ってほしいということもあるが、どんな文章がどのような評価に値する文章なのかを判断する意識は、今後自分が文章を書くことにフィードバックする。これも重要な学習なのだ。

 そういえば入学直後の課題テストも相互採点したが、漢字テストを採点すると、どういうところで漢字を書き間違えるのかを意識するようになる。


 さて、みんなの文章について、いくつか気になったこと。

 課題を提示する時点で、文章の引用は必ず「 」で括る、と注意した。意識したろうか。ひどいものは文章の題名にすら括弧を付けていない者もいた。

 そういえばスマホのフリック入力では、「 」をつけるのが面倒だから、みんなは文章に括弧を付ける習慣がつかないのかなあ、などと思っていたが、フリック入力でも「や」から括弧の入力ができるのだと、調べて初めてわかった。まあこのブログの文章などを見てわかるとおり、授業者はやたらと括弧を付ける傾向にあるが、それが引用の言葉なのかどうかを意識することは重要だ。自分が発想して自分が発信する言葉と、他人が言っている言葉を区別する意識。

 知的な英語話者は、喋りながら、頭の両脇で人差し指と中指でチョキを作って少し曲げたポーズをとることがある。その言葉は「” ”」がついた、「いわゆる」というニュアンスですよ、というメッセージだ。

 外向けの文章では、必要に応じて適切に括弧を使う習慣をつけたい。


 「価値」を「価値」と書く誤字が多く見られた。最近では「価値感」を許容する傾向もあるのだが、原文では「価値観」となっている。

 「価値観」とは「価値」に対する「見方(観)」。


 特に書き出しの部分で「私は~と思う。」と書いている者が多かったが、論文中に「私」が出てくる必要は、原則的には、ない。書かれた内容は全て「私」が「思った」ことに決まっているので、書く必要がない。「思った」内容だけを書けば良い。

 「私は~と思う。」と書きたくなるのは、断言することに自信のないときでもある。

 だが論文では責任をもって断言する覚悟を持つべき。この部分は個人の好みや立場に過ぎないということをよほど強調したいというときにだけ限定して使うとして、基本は「私は~と思う。」という書き方はしない。

 単に「~と思う。」という文末でもNG。

 せめて「私は」と書かず、「~について述べる。」とだけ書く。


 さて、評価する前に複数の他人の文章を読んで、「相場感」をとらえておいた。これくらいできれば上出来、というつもりでこちらも同じ課題に取り組んでみた。


例1

 「〈私〉時代のデモクラシー」で宇野は社会学者バウマンの言葉を借りて「私たちの生きる近代は(…)〈個人〉や〈私〉中心の近代だ」と述べる。「近代の目標」はそれまでの社会的伝統や宗教からの「個人」の解放だった。そうして出現した「個人」が自由な近代社会を作っている。だがそうした自由の中で「自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえ」ないと宇野は言う。解放を目指していた近代は、その反動で個人に、人間関係の維持を強いるようになっているのだ。

 山竹「空虚な承認ゲーム」では、「宗教やイデオロギーなど、個人が生きる意味を見出だすための社会共通の価値観」=『大きな物語』が信用を失」っているのが現代だと言う。これは「伝統・宗教」から「個人」を解放してきたのが近代だと宇野が言うのと同じことだ。そしてその反動で人間関係を自分で選択して構築・維持しなくてはならないのが宇野の言う「後期近代」=現代だ。そうした人間関係の維持を、山竹は「空虚な承認ゲーム」と呼ぶ。

 鷲田清一が「『つながり』と『ぬくもり』」の中で次のように言うのも同じだ。「『近代化』というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびき(…)から身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明(…)しなければならない社会をつくりあげてきた」。ここで述べられている「近代化」は宇野や山竹の言う「近代化」と完全に同一である。こうしておとずれる「親密な個人的関係というものに、ひとはそれぞれの『わたし』を賭けることになる」(鷲田)という状況は山竹の「空虚な承認ゲーム」にほかならず、宇野が「人間関係は、一人一人の個人が(…)維持していかなければならない」という状況とも重なる。

710字

例2

 宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」と山竹伸二「空虚な承認ゲーム」と鷲田清一「『つながり』と『ぬくもり』」に共通して述べられている現状認識は、概ね次のように要約することができる。近代は、伝統や宗教といった、多くの人が信じていた「大きな物語」のくびきから人々を解放し、自由にしてきた過程である。そうして生まれた「自由な個人」は、かえって自分の存在に不安を覚え、今度はあらためて身近な人々との人間関係の中で、自らそれを再確認しようとする。

 三者は、そうした「後期近代」=「現代」に生じている問題について、それぞれ次のように述べる。

 鷲田はそうした他人との「つながり」を求める人々のありようをシンプルに「さびしい」という言葉で表現する。若者たちが他人との「つながり」を求めるのは、断絶しているという感覚の裏返しであると言う。

 山竹は「大きな物語」が既に失われている中で個人が身近な人々の承認を得ようとつながりを求めることを「空虚な承認ゲーム」と呼ぶ。そうして承認を求めるために時に自分を抑圧することから、個人の自由と承認の間に葛藤が生ずると述べている。

 そして宇野は、それぞれが「自由な個人」=「私」になった社会で、一人一人がユニークになっているはずなのにかえってみんながそれぞれ似通ってしまう皮肉を指摘し、併せてバラバラな「私」を集めて社会問題を解決しなけれならない民主主義制度の難しさにも言及している。

601字

 例1と例2はどう違う、と授業では訊いた。内容の適否だけでなく、それがどのように書かれているかについても分析的に把握できることが望ましい。

 書き出す前には、例2の一段落のようなことが「共通点」として想定されていた。

 それを実際に文章におこすにあたっては、それぞれの文章でそうした論旨が、どのような表現で書かれているかを実際に引用するつもりだった。そうして書いたのが例1だ。

 だが書いているうちに600字に収まらないことがわかった。引用もしつつそれぞれの文章の主旨をまとめる。しかも相互の対応を示しながらだ。短くまとめるのは難しい。

 そこで例2では、最初に共通した論旨を作文してまとめた。もちろんいくつかの文中の語は括弧を付してそのまま使っている。それでも相当に300字までに余裕があるくらいだったので、その後に、それぞれの文章で、重なっていない、その文章独自の論旨についてそれぞれ短くまとめていった。「関連を示す」ということでは、共通点を示すことが前提で、その上でそれぞれに共通していない論旨がなんなのかを示すことも有効だ。


 さてみんなの文章には、とてもよく書けていて、上の例と遜色ないものもあった。今回の課題は、それほどオリジナリティの出るタイプのものではなく(だからこそ「私は~思う」はいらない)、いわば「正解」があるようなものなので、あとはどれくらい的確に、手際よくまとめるかが評価の分かれ目になった。

 一つ、目を引いた文章を紹介する。C組Sさん。

 私は「〈私〉時代のデモクラシー」「空虚な承認ゲーム」「『つながり』と『ぬくもり』」の三作は、近代における他者からの承認という点で関連していると思う。

 近代では「個人の自由」を求め、「伝統や宗教からの解放」という動きが広まった。しかし、解放された人々は次第に不安を抱き、学校や会社などで集団を作る。

 宇野は、「平等」な個人の集団の中で「一人一人の〈私〉」を、つまり「『このままの』じぶん」を承認してくれることを人々は求めていると述べている。鷲田も、何かが「できる」資格が求められている社会の中で、何もできなくても「『このままの』じぶん」を受け容れてくれる愛情を求めていると述べている。対して山竹は、本当に信じているわけではないような形式的な行為をしている「偽りの自分」を承認してもらおうとしている人が多いと述べている。

 宇野の「〈私〉時代のデモクラシー」、鷲田の「『つながり』と『ぬくもり』」は「『このままの』じぶん」を、山竹の「空虚な承認ゲーム」は「偽りの自分」をそれぞれ承認の対象としている。人々は「『このままの』じぶん」が承認されることを求めているが、実際は「偽りの自分」が承認される自体が蔓延してしまっているのだ。

 このように、三つの文章は近代における他者からの承認について述べている点で関連していると考えられる。

 出だしが早速「私は~思う」型になっているがそれはさておき、「他者からの承認」を三つを関連させるキーワードとして使い、その中で「『このままの』じぶん」と「偽りの自分」という対比に注目して論を展開しているところが鋭い。


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