福岡と若林を読み比べたところだが、問題を総合的に扱うためにもう一つの文章との読み比べをしておく。夏休みの課題にも指定した宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」を「多層性と多様性」につなげる。
まずは共通点を探す。
ここまでの流れで考察してきた「多様性」は、直接の用語としては「〈私〉時代のデモクラシー」には登場しない。だから「多様性」という概念に対応する論点が何かないか、と考える。
それとともに、そもそも共通する言葉も登場している。しかも重要なキーワードとして。何か?
これも、そう言われて探さないと意識できないのは、今までの学習成果が充分に活かせていないということだ。話し合いに時間をとっても、それが言及されていないグループが多かったのは残念。
さて、共通する言葉は、またか、と思ってもらっていい、「近代」だ。近代という概念はそれくらいそこら中に関連する、様々な論の基礎になっている概念だということだ。
つまり「近代」ないし「近代化」及びその果てに訪れる「現代」における「多様性」のありさま、という観点でそれぞれの文章を比較することが可能なのだ。
さて、何が言えるだろう?
次のような一節は、互いに似たようなことを語っていると感じないだろうか?
多層性と多様性
「一つであり、かつ多様である」という在り方は、社会の中のさまざまな事物に見いだされる。(略)社会を構成するそうしたさまざまなものによって、人間の社会自体が「一つであり、かつ多様であるもの」として存在している。
〈私〉時代のデモクラシー
〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。
「多様性」という言葉は「〈私〉時代のデモクラシー」には登場しない。だが上の「一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります」を「多様性」と置き換えることはできないだろうか。
すると「一つである」が「全体として…似通っており、誰一人特別な存在はいません」と対応することになる。
みんな「同じ」でみんな「違う」。
こうした状態は「近代化」とどういう関係にあるか?
例えばこんな一節。
多層性と多様性
〈近代性の層〉が人類史上持つ重要な意味の一つは、そのような多様な人間集団が「同じ人間の社会」であり、それゆえ集団を構成する個々人も民族や文化の拘束から自由な一人の人間として主体たりうるという、「普遍性としての人間と人間性」の理念を提示し、それを規準とする社会を実現しようとしてきたことだ。(略)人間とは基本的に同じものであり、それゆえどの人間の社会も同じ理想的状態を実現しうるという、普遍主義的な理念を基底に持っている。
〈私〉時代のデモクラシー
「近代」の目標の一つは、これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放することでした。(略)近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。
どちらも、近代になって人間はみんな「同じ」という「普遍的」で「平等な」人間観という「理想・理念」が社会を動かしてきたと言っている。みんなが「同じ」であることは、近代に発見されたのだ。
一方でそれは「理想・理念」といった肯定的な面ばかりではない。
だが現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。(「多層性と多様性」)
若林の論は基本的に「多様性」を良しとする主張だから、こうした近代の均質化・画一化の方向は否定的に語られている。
つまり近代になって人はみんな同じになれたが、みんな同じになることは好ましからざる事態でもあり、その反動として現代はまた多様化を目指している、と考えればいいだろうか。
そして宇野はその多様化がまた別の難しさを生んでいることを最後に述べている。多様化する〈私〉は、みんなが一致団結した〈私たち〉を形成することが難しくなっているのだ。
これは「多様化」と「民主制」に対してどのような議論を招来するのか?
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