福岡伸一「生物の多様性とは何か」と若林幹夫「多層性と多様性」を読み比べる。
読み比べる時には、まず共通点を探してそこを重ねる。そしてその周囲の重なり方にどの程度の広がりがあるか、そこに相違があるか、などと考えていく。
「多様性」というキーワードが共通しているのは明らかだが、それがどのような意味で共通しているというのか?
若林幹夫は社会学者だ。この文章も、扱っている領域は「社会と文化」だ。
これと分子生物学者である福岡の論を「多様性」というキーワードでつなげる。
福岡の論で扱われているのは「環境・生態系」といったところだ。
それでも若林は生物学の「多様性」の概念を援用して社会や文化の多様性について語っている。したがって、比較は可能なのだ。
まず明らかなことは両者が「多様性」を肯定的な概念として使っているということだ。そして「問いを立てる」で明らかにしたように、「生物の多様性とは」は、その概念自体の説明ではなく、それが大事であることの理由を説明した文章だった。
一方若林の「多層性と多様性」では「多様性」はなぜ「良いもの」だということになっているのか?
対比を使って文章の論理を整理してみよう。
「多様性」の対比(対立項)はこの文章中ではどのような言葉で示されているか?
多様性/単一性・均質性
左が肯定、右が否定という対立だ。
それがなぜ肯定されるべきかを、若林はどのような形容で語っているか?
文中から二組の形容の対比を拾う。
豊か/退屈・つまらない
強い/脆弱
「形容」を探す、という問いに戸惑った者もいたが、話し合っているうちに上の対比でみんなの意見は一致した。
こうした形容が、多様性を肯定する、いわば根拠だ。こうした「多様性が良いことだと言える根拠」は、福岡と一致しているか?
そもそも「豊か」だから良いということと、「強い」から良いということの間にはどのような関係があるのか?
若林が「強い」と言う意味は、次の一節に示されている。
一つの種の生物の遺伝子の多様性を保持することは、起こりうる種々の環境変化に適応する可能性を大きくすることになる。
生き残る可能性が高いことが、それだけ「強い」ということだ。
これと福岡の次の一節を比べる。
生物多様性の価値は、バリエーションが多ければそれだけ適応のチャンスが広がるから…
両者は正確に対応している。だが福岡の文章は続けて言う。
…適応のチャンスが広がるから、というふうに漠然と理解されているけれど、それは生物多様性の一面でしかない。
若林が多様性を良しとする根拠は「一面でしかない」と言うのだ。
これは二人の論に決定的な齟齬をもたらすのか?
読み比べでとりわけ「相違点」に着目したのは「自立と市場」と「交換と贈与」を読み比べた時だった。二つの論には相反する方向性があるのではないかと一度は考え(授業者のミスリードによって)、その後でそれらを統合して、二人がどのような認識を共有しているのかを考察した。あれは第1回テスト前の考察では最も難易度の高い、それだけに充実感のある有意義な課題だった。
同じように福岡と若林の論を互いに補完することはできないだろうか?
0 件のコメント:
コメントを投稿