福岡と若林をつなぐ問題を総合的に扱うためにもう一つの文章をここにからめる。宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」だ。
まずは共通点を探す。
「多様性」は「〈私〉時代のデモクラシー」には直接は登場しない。だから「多様性」という概念に対応する論点が何かないか、と考える。
それとともに、そもそも共通する言葉も登場している。しかも重要なキーワードとして。何か?
共通する言葉は、またか、と思ってもらっていい、「近代」だ。近代という概念はそれくらいそこら中に関連する、様々な論の基礎になっている概念だということだ。
では「近代」及びその果てに訪れる「現代」と「多様性」にはどんな関係があるか?
次のような一節は、互いに似たようなことを語っていると感じないだろうか?
多層性と多様性
「一つであり、かつ多様である」という在り方は、社会の中のさまざまな事物に見いだされる。(略)社会を構成するそうしたさまざまなものによって、人間の社会自体が「一つであり、かつ多様であるもの」として存在している。
〈私〉時代のデモクラシー
〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。
上の「一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります」は「多様性」と置き換えることができそうだ。
一方「多様」の反対が「一つである」なのだがこれは宇野の「全体として…似通っており、誰一人特別な存在はいません」と対応しているように見える。
みんな「同じ」でみんな「違う」。
こうした状態は「近代化」とどういう関係にあるか?
例えばこんな一節。
多層性と多様性
〈近代性の層〉が人類史上持つ重要な意味の一つは、そのような多様な人間集団が「同じ人間の社会」であり、それゆえ集団を構成する個々人も民族や文化の拘束から自由な一人の人間として主体たりうるという、「普遍性としての人間と人間性」の理念を提示し、それを規準とする社会を実現しようとしてきたことだ。(略)人間とは基本的に同じものであり、それゆえどの人間の社会も同じ理想的状態を実現しうるという、普遍主義的な理念を基底に持っている。
近代は「個人」を生んだが、そうした「個人」の発見こそ同時に人間の「普遍性」の発見でもある。「普遍」つまり共通性=みんな同じ、だ。
これは「〈私〉時代のデモクラシー」の次の一節と比較できる。
近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。
「公正」の他にも「平等」ともいっている。人間はみんな「同じ」であることは「理念・理想」なのだ。
一方でそれは肯定的な面ばかりではない。
多層性と多様性
だが現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。
つまり「みんな同じ」は、目指すべき目標でもあったが、同時に忌避すべき事態でもある。
そして宇野はその多様化がまた別の難しさを生んでいることを最後に述べている。多様化する〈私〉は〈私たち〉を形成することが難しくなっているのだ。
これは「多様化」と「民主制」に対してどのような議論を招来するのか?
今回の一連の考察は小論文としてまとめる。
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