さて、次は3「恣意性」。
AIの文章では恣意性について、2点に分けて説明している。それぞれ、何が恣意的だと言っているのか?
既に提示してある対比と、先に確認した1「先/後」、2「差異」の問題と関係づけて説明しよう。
恣意性1は対比の左右の結びつきが恣意的であると言っている。
言語で言えば「言葉/もの」の結びつきが、だ。犬が各言語でそれぞれ違った発音で表されているという例で説明されている。
これを貨幣に適用すると?
すぐに思いつくのは、ある価値を表す貨幣単位が「円」でも「ドル」「ユーロ」「人民元」「ポンド」でもいいという例だ。
「貨幣/商品の価値」を「貨幣の素材/貨幣」と置き換えると次のような例もこれに該当する。
金のほかに、銀、銅、貝殻、石盤(中略)そして人間の奴隷といったありとあらゆるものが、古今東西にわたって貨幣として流通していた。そのあきれるほどの多様さ、いや不統一さは、貨幣が貨幣であることはそれがどのようなモノであるかということとはなんの関係もないということを意味している。(岩井克人「貨幣論」)
左右の結びつきは恣意的なのだ。金属(硬貨)でも紙(紙幣)でもいいどころか、電気信号(カードや暗号資産)でもいい。
広告となればその恣意性は甚だしい自由として表れる。もはや何でもありとさえ言える。よく言えば創造性を保証しているともいえる。ほとんど商品の登場しない、イメージだけが表現されるCMだって広告として機能する場合がある。
恣意性2は、説明の2段階「差異」、つまり切り分け方が恣意的だ、というものだ。虹は3色でも7色でもいい。フランス語のように「羊」と「羊肉」を区別しなくてもいい。
これを貨幣に適用すると?
目の前のリンゴに200円の値がついていても、50万円の値がついていてもいい。その場合はミカンが30万円だったり、スイカが800万円だったりするかもしれない。現在の日本の通貨価値からすると超インフレということになるが、それも「システムの中の他の項との関係によって決まる」のだから、単に「高い」ということではなく、適正価格なのかもしれない。
こんなふうに考えられるということが「恣意的」だということだ。
これで4「システム・ネットワーク」にも言及できた。
「広告の形而上学」から、そのことを言っている文章を探そう。例えば次の一節。
広告と広告との間の差異――それは、広告が本来媒介すべき商品と商品との間の差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。それゆえ、それは、例えばセンスのよしあしとか迫力のあるなしとかいうような、違うから違うとしか言いようのない差異、すなわち、客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異として現れる。
これが言わば「広告の恣意性」を言っているのだとわかるだろうか?
「広告と広告との間の差異」が「商品と商品との間の差異」に「還元」できるなら、それは「必然的」ということだ。商品に差があるのだから、必然的に広告にも差がある。
あるいは「客観的対応物」があれば「必然的」だが、それを「欠いた差異」なのだから、それは「恣意的」だと言っているのだ。
広告における「ネットワーク」は?
(広告が示していると見なされている商品の価値は)「広告の巨大なる集合」の中における広告それ自体の間の差異を問題にしている
「広告の巨大なる集合」が「システム・ネットワーク」。言語論における「言語システム」に対応し、貨幣で言えば「価値体系」、つまり市場とか相場の中で価値が決まる。
商品の価値も広告も、システムの中での他の項との差異によって価値が決まる。100円が高いか安いかは、システムの中で決定される。150年前なら結構な大金だが、今では100円ショップで買い物もできない(消費税分が足りないので)。つまり価値は相対的なものであって、それは比較対象との「差異」によって決まるということだ。
そして、「差異」の体系としての「システム・ネットワーク」の中で、言葉の意味も商品の価値も、他の項との関係によって決まる。
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