2025年11月6日木曜日

視点を変える 5 広告の形而上学

 次にここにつなげて読むのは岩井克人「広告の形而上学」。

 これは厄介な文章だ。高校1年生に読ませる文章ではない。冒頭の段落から何のことを言っているのか、正直、わからないと感ずるはずだ。続く2段落がまたわからない。「広告の時代」とまで言われている現代、などと言われてもそう「言われている」という問題意識が高校生に共有されているはずがない。そこへもってきて「形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在」などという表現に目が眩んでしまう。


 だが実はこの辺りを「理解」すべくじっくり考察するつもりはない(「形而上学」「逆説」について考えたのは3クラスくらい)。この部分の考察は、この部分を「理解」するだけに終ってしまう。「理解」は授業の目的ではない。「わかる」ではなく「できる」が学習の目的だ。

 それより今は「視点を変える」の流れの中でこの文章を読もうとしている。すると「差異」といった言葉が繰り返し登場して、アレッと思う(思ってほしい)。

 そしてついには次の一節が登場する。

言語について、ソシュールは、「全ては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生みだす。」と述べているが、…

 ソシュール!

 実は「ことばとは何か」の方でも、続く文章中に岩井克人が引用され、ソシュールの言語論が経済学にヒントを得ていたことが語られている。

 関係づけて考えることは、何ら無理矢理なことではない。

 さてどこから考えるか?


 この文章で中心的に取り上げられているのは題名にある「広告」だ。

 ではこの文章で広告と類比的に言及されているのは何か?

 広告と同程度の抽象度で二つ。何と何?


 プディングではない。プディングは例として用いられているので当然類比的ではあるが、同程度の抽象度ではない(しかもプディングが広告に対応しているわけでもない)。

 「動物」も気になる。だがそれは貨幣の奇妙さを直感的に示すためにマルクスが用いた比喩であり、確かにこれが広告にも適用されてもいるが、比喩とその対象は抽象度が違う。だがこの論理によって、広告が何に類比されているかがわかる。そう、一つは「貨幣」だ。

広告というものも、貨幣と同様、いわば形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在なのである。

 もう一つは?


 一つ上の引用で既に明らかだ。

言語について、ソシュールは、「全ては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生みだす。」と述べているが、それはそのまま広告についても当てはまる。

 この文章で、広告は貨幣と言語と類比されているのだ。


 この文章で広告について岩井克人が論じていることを高校生が理解したり考えたりすることは難しい。それは単にこの文章の表現だったり、内容だったりが難しいというだけではない。

 実はこの議論は、先に貨幣と言語の類比が論じられてきたという経済学と言語学の議論があり、それを前提に、ここで岩井克人は「広告もそうだよね」と言っているのだ。

ソシュールが教えてくれたのは、あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない、ということです。これは別にソシュールの創見というわけではありません。古典派経済学はすでに商品の「価値」と「有用性」が別ものであることを熟知していました。「商品の価値とは必然的に価値体系のなかでの一つの価値に過ぎず、一つの市場の需給関係が変化すれば、それは同時にすべての商品の価値を変化させてしまうことになる。」(岩井克人『貨幣論』)という経済学の知見はソシュールの「価値」という用語法に直接影響しています。(授業中に読んだテキストでは後半部分を省略してある)

 経済学における貨幣の知見をソシュールは言語に応用し、経済学者である岩井克人はそれを広告に応用する。そんな事情があることを高校生が知るはずもない。それなのに、この教科書でこの問題に初めて触れる高校生は、いきなり広告について考えることを強いられる。だからこの文章を高校1年生に読ませるのは無茶なのだ。

 とはいえ、「広告」という題材から、現代社会についての認識を得ることは、まあ有益なことだと言っても良いし、そもそも難しいということは、不可能であることを意味しない。難しいということは学習として有効な教材でもあり得るということだ。考えてみよう。


 広告と貨幣と言語が共通した性質を持っているとは、それぞれと何かの関係が類比的であるということだ。

広告/商品

貨幣/    

言語/    

 広告における商品に対応するのは、貨幣では何か? 言語では何か?


 貨幣でも、ひとまず「商品」だと言っていい。さらに「商品の~」と示唆すると、みんなすぐに「商品の価値」と補完した。「広告」に対応しているのも「商品の価値」だ。

 言語でこれに対応するのは?


 ひとまず「意味」。あるいは「概念」。「概念」という語彙は中学生には使い慣れない言葉だ。辞書を引くとわけのわからない説明がなされているが、「概念」というのは簡単に言えば「言葉の意味」という意味だ。「赤」という概念は、「赤」という言葉がもつ「意味」そのものだ。

 内田樹の文章でこれにあたる言葉は?


 最初のうち繰り返し使われている語で、これに対応するのは「もの」だ。

あることばが含む意味の幅の中にぴたりと一致するものを「もの」と呼ぶとするならば…

  文中の「もの」はすべて「(言葉の)意味」「概念」と言い換えても成立する。

 言語に対応するものとして「もの」と「概念」が並列されることを不審に思うかもしれない。この点について、授業では「ペン・ノート・黒板」などの言葉だったら具体的な「もの」を指すし、「愛・平和」だったら抽象的な「概念」を表しているだろ、と説明したが、実はこれは正確ではない。

 「ペン」という言葉が指し示しているのは、そもそも具体的な「ペン」という「もの」ではなく「ペンという概念」なのだ。このペンもあのペンも、シャープペンも万年筆もボールペンも「ペン」なのだし、「ペンは剣よりも強し」などという時の「ペン」は言論・言説という抽象概念を意味している。

 言葉が表しているのは、それに対応する具体物がある場合でもすべて「概念」であり、内田がいう「もの」はそもそも特定の具体物のことではなく「概念」のことなのだ。文章終盤では「観念」と言い換えられてもいる。

 言葉の「意味」は途中で「価値」とも言い換えられている。「広告」における「価値」と「言葉」における「意味」が類比的に対応しているのもうなずける。

広告/商品の価値

貨幣/商品の価値

言語/意味・概念・もの

 さてこれら類比項目の左右の関係にはどのような共通性があるか?


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