2025年11月9日日曜日

視点を変える 8 視点=スキーマ=記号

 言語論と貨幣論、広告論の対応は整理できてきた。

 さてこれをもう一度最初の「木を見る、森を見る」につなげる。

 今までに確認されたいくつかのテーゼを思い出そう。

  • 視点を変えると物事は違って見える。
  • スキーマを変えるとゲシュタルトは変わる。
  • 言語が違うと世界は違って見える。


 これをそのまま貨幣や広告にあてはめれば次のように言える。

  • 広告が違うと商品は違って見える。
  • 値段が違うと商品の価値は違って見える。

 これは納得しやすい。


 だがもう一歩、スキーマという考え方のポイントは「認識」という現象の成り立ちについてだった。

  • スキーマがなければゲシュタルトはできない(認識できない)。

 これはそのまま言語についても言えることを確認した。

  • 言語がなければ世界を(言語的に)認識することはできない。

 齋藤亜矢が「チコちゃんに叱られる」で言っていた、人間以外の動物に絵が描けない理由はこれだ。

 ではこれも貨幣や広告にあてはまるのか?


  • 貨幣がなければ(広告がなければ)商品の価値はわからない。

 これは実感に合っているだろうか?

 ある程度はうなずけるような気もするが、腑に落ちるとは言い切れない。素朴に言えば我々は商品の価値を直観的に(貨幣や広告を媒介せず)捉えているのでは?

 だが本当にそうなのか? というのがソシュールの問いかけだったのだ。「羊」が先にいるという考えるのが素朴で直観的な捉え方で、それに対して、いや「羊」という言葉が、それを「羊」と認識させるのだ、という逆転の発想が斬新だったのだ。

 とはいえここでも、もうちょっと実感に寄り添った言い方をしてみよう。

 どう言ったら良いか?


 こういうときは「~ではなく」型の文にするのがミソ。

商品にそれだけの価値があるからその値段がつくのではなく、その値段がついているから、それだけの価値があると認識するのだ。

 これならば受け容れることもできる。

 ではこの場合の「スキーマ」と「ゲシュタルト」は何か?


 価値体系がスキーマで、それによってここの商品に値段がつくこと、あるいはその価値を認めることがゲシュタルトだ。値段・価値は、価値体系がなければ決まらない。



0 件のコメント:

コメントを投稿

よく読まれている記事