言語論と貨幣論、広告論の対応は整理できてきた。
さてこれをもう一度最初の「木を見る、森を見る」につなげる。
今までに確認されたいくつかのテーゼを思い出そう。
- 視点を変えると物事は違って見える。
- スキーマを変えるとゲシュタルトは変わる。
- 言語が違うと世界は違って見える。
これをそのまま貨幣や広告にあてはめれば次のように言える。
- 広告が違うと商品は違って見える。
- 値段が違うと商品の価値は違って見える。
これは納得しやすい。
だがもう一歩、スキーマという考え方のポイントは「認識」という現象の成り立ちについてだった。
- スキーマがなければゲシュタルトはできない(認識できない)。
これはそのまま言語についても言えることを確認した。
- 言語がなければ世界を(言語的に)認識することはできない。
齋藤亜矢が「チコちゃんに叱られる」で言っていた、人間以外の動物に絵が描けない理由はこれだ。
ではこれも貨幣や広告にあてはまるのか?
- 貨幣がなければ(広告がなければ)商品の価値はわからない。
これは実感に合っているだろうか?
ある程度はうなずけるような気もするが、腑に落ちるとは言い切れない。素朴に言えば我々は商品の価値を直観的に(貨幣や広告を媒介せず)捉えているのでは?
だが本当にそうなのか? というのがソシュールの問いかけだったのだ。「羊」が先にいるという考えるのが素朴で直観的な捉え方で、それに対して、いや「羊」という言葉が、それを「羊」と認識させるのだ、という逆転の発想が斬新だったのだ。
とはいえここでも、もうちょっと実感に寄り添った言い方をしてみよう。
どう言ったら良いか?
こういうときは「~ではなく」型の文にするのがミソ。
商品にそれだけの価値があるからその値段がつくのではなく、その値段がついているから、それだけの価値があると認識するのだ。
これならば受け容れることもできる。
ではこの場合の「スキーマ」と「ゲシュタルト」は何か?
価値体系がスキーマで、それによってここの商品に値段がつくこと、あるいはその価値を認めることがゲシュタルトだ。値段・価値は、価値体系がなければ決まらない。
0 件のコメント:
コメントを投稿