2025年11月7日金曜日

視点を変える 6 アナロジー=類比

広告/商品の価値

貨幣/商品の価値

言語/意味・概念・もの

 三つの項目は類比的だ。それは左右の関係に共通した構造があるということだ。

 それを説明するために、どのように考えを進めたらよいか?


 方針としては、既に言語論については考えてあるので、これを貨幣と広告に応用するとどのように言えるかを考える。

 さらに「広告の形而上学」の中で、対応する記述を探す。

 言語論では、ソシュールの考え方を明確にするために「カタログ言語観」が対比されていた。同様に、「カタログ言語観」的貨幣観や広告観とはどのようなものかを説明し、それとの対比でソシュール言語学的貨幣観・広告観を説明する。

 考える糸口としてもう一つの文章を読み合わせる。「ソシュール言語論における言語の恣意性」についてAIに書いてもらった文章だ。こういう、既に世の中にある言説をまとめるのはAIの得意とするところだ。本当に的確にバランス良く書いてくれる。

 ソシュール言語学における「言語の恣意性」

 フェルディナン・ド・ソシュールの言語論において中心的な位置を占める「言語の恣意性」という概念は、言語がどのように意味を成立させるかを根本から問い直すものである。

 ソシュールは、言語記号を「記号表現(シニフィアン、音響イメージ)」と「記号内容(シニフィエ、概念)」との対として定義し、これらの結びつきが必然的なものではなく、本質的に慣習的・恣意的であると主張する。

 ソシュール以前の言語観では、言葉は事物の「名前」であり、事物そのものに固有のラベルが貼られているかのように捉えられていた。例えば、「イヌ」という言葉は、現実の「犬」という動物と本質的に結びついていると多くの人が考えていた。しかしソシュールは、この素朴な見方を否定し、記号表現と記号内容の関係は、自然法則や論理的必然性によって規定されるものではないと主張した。

 そして、この記号表現と記号内容の結びつきが「恣意的」であるとは、具体的に以下の点を意味する。

 ある特定の音響イメージが特定の概念と結びつく論理的な必然性や、自然な因果関係は存在しないということだ。「犬」という概念を指し示すのに、日本語では「イヌ」という音を使うが、英語では「dog」、フランス語では「chien」と全く異なる音を用いる。もし記号表現と記号内容の間に必然的な関係があるならば、世界中の言語で同じ概念に対して同じ音が使われるはずだが、実際はそうではない。この事実は、音と概念の結びつきが、特定の言語共同体の間で確立された「約束事」に過ぎないことを示している。

 このような恣意性は、単に語と対象の関係にとどまらない。ソシュールは、言語が現実世界を映し取る手段ではなく、むしろ現実を切り分け、構造化する枠組みそのものであると考える。たとえば、ある言語では色を七つに分類する一方で、別の言語ではそれを三つにしか分けないことがある。このような違いは、言語が世界に先立って存在する概念の名前を貼り付けるものではなく、むしろ言語が概念そのものを構成していることを意味する。つまり、人間が何を「物」ととらえ、何を「行為」や「状態」として認識するかは、言語の分節の仕方に依存しており、その分節のあり方には根拠のない選択の側面、すなわち恣意性が含まれている。

 「言語の恣意性」という概念は、言語を個人の心理現象や事物の反映としてではなく、「体系(システム)」として捉えるソシュールの視点を明確に打ち出した。言語記号の価値は、それが指し示す対象によって決まるのではなく、むしろ言語体系内部の他の記号との関係性、つまり「差異」によって規定されるとソシュールは考えた。例えば、「犬」という概念は、「狼」や「狐」や「狸」といった他の動物の概念との区別によってその輪郭が明確になる。個々の記号表現と記号内容の結びつきが恣意的であるからこそ、言語は柔軟性を持ち、無限の組み合わせによって多様な意味を表現することを可能にしているのだ。こうした視点は言語学の枠を超え、文化、社会、思想といった広範な分野において、現実が言語によって構築されるという構造主義的な思考の基盤を築くことになった。私たちは、この恣意的な記号の体系を通してのみ、世界を認識し、理解し、そして他者と共有していると言えるだろう。

 既に確認した趣旨、内田や今井の文章と重なる論旨も繰り返されている。

 そしてさらに「恣意性」だ。

 まず「恣意性」とはそもそもどういう意味か?

 辞書を引けば「気まま・自分勝手」と書いてあるが、言語が「自分勝手」とはどういう意味かわからない。

 こういうときは対比を用いる(ところで対比の考え方は、前回確認した差異が重要というテーゼと同じだ。それがそれであることは、それ以外との差異によって明確になる)。

 これはソシュール言語論の根幹をなす考え方だから、その対義語は、「カタログ言語観」の考え方を表していると考えられる。

 「恣意的」の対義語をネット検索すると「規則的」「機械的」「一貫」などが挙がっているが、「カタログ言語観」の考え方を示すにはしっくりこない。

 それより、「恣意性」に対して文中から対義的な言葉を探すと「必然的」がそれにあたることはすぐわかる。

必然的/恣意的

 この対比を使って説明する。


 これ以降、語るポイントを以下の4点に整理し、それを次の順番で語ろう。

  1. 先/後
  2. 差異
  3. 必然的/恣意的
  4. システム・ネットワーク

 順番に、言語について確認したらそれを貨幣と広告に応用し、次のポイントは前のポイントに関連させる。


 まず1「先/後」とは何か?

 これは「生得的/事後的」のことだ。

 何が? 主語は何?

 「意味」だ。

 つまり「言語/意味」が「後/先」だと考えるのがカタログ言語観で、「先/後」だと考えるのがソシュール言語学ということになる。

 先に「もの」(=意味)があって、そこに名前(=言語)がつくと考えるのがカタログ言語観。言語によって初めて「もの」が明らかになると考えるのがソシュール。


 これを貨幣に適用する。

先に商品の価値がわかっていて、それに適正な値段がついているのではなく、値段がつくことで商品の価値がわかる。

 ここでは貨幣を「値段」と言い換えるところがミソだ。


 これを広告に応用すると次のようになる。

商品の価値が先にあり、広告はそれを表現するものだというわけではなく、広告によって商品の価値がわかる。

 「広告の形而上学」本文ではそのことを言っているか。

 次の文章がそのことを言っている。

資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告という媒介を通じて初めて商品を比較することができるのである。


 次は2「差異」。

 まずこれは何の「差異」のこと?

 「言葉は世界を切り分ける=差異化する」などというだけでは何のことかよくわからない。

 一つ目の「先/後」と関係づけることが肝心。

 カタログ言語観は先に「意味」が切り分けられていて、そこに言葉が割り当てられると考える。

 ソシュール言語学では、言葉が切り分けられるから、それによって世界が切り分けられる、つまり「意味」が生じるのだと言っている。

 例えば赤と紫、赤とピンクとの「差異」によって意味の範囲=幅が決まる。網を構成する糸が空間を仕切る(区切る)=差異化することでその両側に意味の輪郭をつくる。最初から赤という「もの」があるわけではない。


 これを貨幣に応用すると?

 先に商品の価値にそれぞれの差があるから、それに応じた差をつけた値段がつくと考えるのがカタログ言語観的貨幣観。

 値段に差があるから、商品の価値にも差があることになるのだ、と考えるのがソシュール的貨幣観。


 これを広告に応用すると?

 これも、言い方は同じようなことになるので省略するが、問題は岩井もそう言っているか、ということだ。

もちろん、広告とは常に商品についての広告であり、その特徴や他の商品との差異について広告しているように見える。だが、人が、例えば、ある洋菓子店のウインドーのプディングの並べ方は他の店に比べてセンスがよいと感じるとき、あるいは、ある製菓会社のプディングのコマーシャルは別の会社のよりも迫力に乏しいと思うとき、それは、広告されているプディングどうしの差異を問題にしているのではない。それは、プディングとは独立に、「広告の巨大なる集合」の中における広告それ自体の間の差異を問題にしているのである

 「~ように見える」のところがカタログ言語観的広告観。カタログ言語観は、人々の素朴な見方を言っているのだが、ソシュールは、実は逆なんじゃないの? と言っているのだ。



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