広告/商品の価値
貨幣/商品の価値
言語/意味・概念・もの
三つの項目は類比的だ。それは左右の関係に共通した構造があるということだ。
それを説明するために、どのように考えを進めたらよいか?
方針としては、既に言語論については考えてあるので、これを貨幣と広告に応用するとどのように言えるかを考える。
さらに「広告の形而上学」の中で、対応する記述を探す。
言語論では、ソシュールの考え方を明確にするために「カタログ言語観」が対比されていた。同様に、「カタログ言語観」的貨幣観や広告観とはどのようなものかを説明し、それとの対比でソシュール言語学的貨幣観・広告観を説明する。
考える糸口としてもう一つの文章を読み合わせる。「ソシュール言語論における言語の恣意性」についてAIに書いてもらった文章だ。こういう、既に世の中にある言説をまとめるのはAIの得意とするところだ。本当に的確にバランス良く書いてくれる。
既に確認した趣旨、内田や今井の文章と重なる論旨も繰り返されている。
そしてさらに「恣意性」だ。
まず「恣意性」とはそもそもどういう意味か?
辞書を引けば「気まま・自分勝手」と書いてあるが、言語が「自分勝手」とはどういう意味かわからない。
こういうときは対比を用いる(ところで対比の考え方は、前回確認した差異が重要というテーゼと同じだ。それがそれであることは、それ以外との差異によって明確になる)。
これはソシュール言語論の根幹をなす考え方だから、その対義語は、「カタログ言語観」の考え方を表していると考えられる。
「恣意的」の対義語をネット検索すると「規則的」「機械的」「一貫」などが挙がっているが、「カタログ言語観」の考え方を示すにはしっくりこない。
それより、「恣意性」に対して文中から対義的な言葉を探すと「必然的」がそれにあたることはすぐわかる。
必然的/恣意的
この対比を使って説明する。
これ以降の語るポイントの順番は次のようにしよう。
- 先/後
- 差異
- 必然的/恣意的
- システム・ネットワーク
順番に、言語について確認したらそれを貨幣と広告に応用し、次のポイントは前のポイントに関連させる。
まず1「先/後」とは何か?
これは「生得的/事後的」のことだ。
何が? 主語は何?
「意味」だ。
つまり「言語/意味」が「後/先」だと考えるのがカタログ言語観で、「先/後」だと考えるのがソシュール言語学ということになる。
先に「もの」(=意味)があって、そこに名前(=言語)がつくと考えるのがカタログ言語観。言語によって初めて「もの」が明らかになると考えるのがソシュール。
これを貨幣に適用する。
先に商品の価値がわかっていて、それに適正な値段がついているのではなく、値段がつくことで商品の価値がわかるのだ。
ここでは貨幣を「値段」と言い換えるところがミソだ。
これを広告に応用すると次のようになる。
商品の価値が先にあり、広告はそれを表現するものだというわけではなく、広告によって商品の価値がわかる。
「広告の形而上学」本文ではそのことを言っているか。
次の文章がそのことを言っている。
資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告という媒介を通じて初めて商品を比較することができるのである。
次は2「差異」。
まずこれは何の「差異」のこと?
「言葉は世界を切り分ける=差異化する」などというだけでは何のことかよくわからない。
一つ目の「先/後」と関係づけることが肝心。
カタログ言語観は先に「意味」が切り分けられていて、そこに言葉が割り当てられると考える。
ソシュール言語学では、言葉が切り分けられるから、それによって世界が切り分けられる、つまり「意味」が生じるのだと言っている。
例えば赤と紫、赤とピンクとの「差異」によって意味の範囲=幅が決まる。網を構成する糸が空間を仕切る(区切る)=差異化することでその両側に意味の輪郭をつくる。最初から赤という「もの」があるわけではない。
これを貨幣に応用すると?
先に商品の価値にそれぞれの差があるから、それに応じた差をつけた値段がつくと考えるのがカタログ言語観的貨幣観。
値段に差があるから、商品の価値にも差があることになるのだ、と考えるのがソシュール的貨幣観。
これを広告に応用すると?
これも、言い方は同じようなことになるので省略するが、問題は岩井もそう言っているか、ということだ。
もちろん、広告とは常に商品についての広告であり、その特徴や他の商品との差異について広告しているように見える。だが、人が、例えば、ある洋菓子店のウインドーのプディングの並べ方は他の店に比べてセンスがよいと感じるとき、あるいは、ある製菓会社のプディングのコマーシャルは別の会社のよりも迫力に乏しいと思うとき、それは、広告されているプディングどうしの差異を問題にしているのではない。それは、プディングとは独立に、「広告の巨大なる集合」の中における広告それ自体の間の差異を問題にしているのである
「~ように見える」のところがカタログ言語観的広告観。カタログ言語観は、人々の素朴な見方を言っているのだが、ソシュールは、実は逆なんじゃないの? と言っているのだ。
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