これから数時間「羅生門」を読む。
「羅生門」は特異な作品だ。
発表されてから100年以上経った今、間違いなく、最も多くの日本人が読んだことのある小説なのだ。
それは人気作だということではない。「鬼滅の刃」が、「進撃の巨人」「ONE PIECE」「名探偵コナン」がいかに多くの読者を得ているとしても、読んだことのない日本人も多い。
だが「羅生門」を読んだことのある日本人は、16歳から70台くらいまでの日本人の8割くらいにはなるはずだ。みんなのお父さんお母さんも、日本の高校を出ていれば間違いなく読んでいる。こんな小説は他にはない。
それは「羅生門」が全ての出版社の国語教科書に収録されていて、授業で扱われないこともほとんどないからだ。高校の進学率が長らく9割の後半であり、それら日本の高校生を経験した大人のほとんどが「羅生門」を読んでいることになる。
いわば「羅生門」は日本人の基礎教養、共通常識なのだ。
みんなも今回晴れてその大多数の日本人の仲間入りをしたことになる。
日本人の基礎教養「羅生門」とはどんな小説か?
読解のために、まず問いを立てよう。
問いを明確にすることの重要性については言を俟たない。何を考えるべきかを自覚することで思考は集中力を増す。
「この文章は何を言っているか?」という問いは、常に有益な問いだ。授業でそういう時間をとらなくても、常に自分で考えなければならない。
小説の場合、これを「この小説の主題は何か?」などという言い方で表わすのだが、つまりは「何を言っているか」だ。
「羅生門」が何を言っている小説かは、一読してただちにわかるものではない。わからないから授業で扱うのだ、とも言える。
だが、このレベルの抽象度の問いに、最初から立ち向かうのは得策ではない。
まずはもっと具体的なレベルの問いから始めよう。
といって瑣末な問いではない。「羅生門」を読み解くために最低限であり、かつ最優先されるべき、最重要の問いだ。
「羅生門」がひとまず「わかった」と思うためには、何がわかればいいのか? 「羅生門」を一読した今、最も大きな謎は何だと感じられているか?
主題の考察には抽象化が必要だが、まずここでは具体的な謎を取り上げよう。
課題の回答を見ると、やはりまだ抽象度が高かったり、細部に拘ったりする問いも挙がっていた。
「下人はどこに行ったか?」を挙げた者は各クラスにいるが、これは最優先に答えを得るべき問題ではない。答えがありそうだという見込みもない。
「悪は許されるか?」のように抽象的な問いでは考えるべき焦点が曖昧になる。これは「主題」に踏み込みすぎていて、考えるべき行程が多過ぎる。また「Yes-No」で答えられる問いはあまり有益ではない。どちらかの結論が重要なのではなく、その結論を導く論理が重要だからだ。
「羅生門」における最優先最大公約数的問いは明白だ。
なぜ下人は引剥ぎをしたか?
物語の終わりに、下人は老婆に対して引剥ぎをはたらく。この行為の意味こそが、「羅生門」という小説の焦点だ。
6割くらいの回答者はこれを挙げた。
ただし表現はいくつものバリエーションがあった。例えば「なぜ悪を選んだのか?」「なぜ盗人になることを選んだのか?」などという表現をした者も多かったが、これは避けたい。
「引剥ぎをする」と「盗人になる」は厳密に同一ではない。「盗人になる」には既に解釈が含まれている。下人が最後に行った引剥ぎが「盗人になる」ことを意味すると見なすことには留保がいる。
さしあたっての共通認識として、小説内事実として争いのない引剥ぎという「行為」を問いとして立てておこう。
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