奇妙な「憎悪」は、後に言及される「勇気」を下人の心に生み出す。それに動かされて下人は老婆を取り押さえる。その後におとずれる②「安らかな得意と満足」もまた不自然だ。
どのように?
この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。説明はされている、にもかかわらずちっとも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。この脳天気さは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。
これは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「雨の夜に」「羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが理由になるのかが読者にはわからない。読者にわからない理由が、わざわざ挙げられている。
だがもっと明確にこの不自然さを指摘しよう。
この不自然さは、ある順序によって生じている。
②「安らかな得意と満足」が不自然だと感じられるのは、何より前に「得意と満足」が生じているからか?
当然あるべき何がないことが不自然なのか?
老婆の返答である(各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。
下人は「何をしていた」と問うが、老婆の答えを聞く前に「満足」している。これが違和感の原因だ。
これもまた、①「憎悪」の分析と対になっている。「悪」であると判断する合理的理由はないまま断定して燃え上がった「憎悪」は、その理由についての疑問が氷解する前に消滅する。
つまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということだ。
このことが意味するのは何か。
次の③「失望」ももちろん不自然だ。
この「失望」から何が考えられるか?
この「失望」も読者の自然な共感・理解を超えている。だから「なぜ下人は失望したか?」と訊きたくなるが、この問いでは答えまでの距離が遠すぎる(だが後でもう一度訊く)。
まずこう考えよう。この記述を反転させるとどうなる?
「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡(特殊・異常…)」な答えを「期待」していたことになる。
では下人はなぜ異常なことを期待するのか? そして「非凡」な答えとはどのようなものか? というより、このことは何を示しているか?
「失望」とともにまた再び「憎悪」が浮上してくる。
ここでの分析には比較を使う。①「憎悪」と③「憎悪」を比較する。
両者の共通点と相違点は何か?
比較するためには共通性が前提となるのだが、みんなには相違点を挙げる方が容易だ。
では相違点は何か?
①が、老婆の行為の理由がわかる前に生じた「憎悪」であるのに対し、③は、わかってから生じた「憎悪」である。また、①が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、③は老婆という限定した対象に向けられている。
対象が「不特定」(一般化)か「特定」(限定的)か。
また、①が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。
「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」。
こうした差異は何を示しているか?
一方、共通点は何か?
「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、①の「憎悪」を受けて③の「憎悪」が捉えられていることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。
だがこれを言葉にするのは難しい。聞いてみるとあっさり出てくることがある一方、なかなか出てこないで時間がかかる場合もある(これもまた、各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。
実は拍子抜けするほど簡単な答えだ。
共通点は、どちらも「悪に対する憎悪」だということである。
このことをなぜ確認する必要があるかというのは、最終的な考察で明らかになる。
またこの憎悪は「冷ややかな侮蔑といっしょに」下人の心に入り込む。
この「冷ややかな」は、老婆の話を聞く下人の態度「冷然と」に、また「侮蔑」は「嘲るように」につながっていないだろうか。
それを認めるならば、先の「嘲る」の説明、老婆の自己正当化の論理が自分に対する害をも容認することに老婆自身が気づいていないことを嘲っているのだ、という説明を見直す必要があることになる。「冷ややかな侮蔑」は老婆の長広舌を聞く前だからだ。
そして「かみつくように」という老婆に対する敵意は「憎悪」につながるようにも思える。
したがって、「嘲る」にせよ「かみつく」にせよ、老婆に対する下人の感情は、老婆の長広舌の前にその要因が準備されていると考えられる。
ここまで見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。
「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。
とすればその論理とは何か?
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