2025年12月4日木曜日

羅生門 3 行為の重要性

 ではなぜ、この行為=引剥ぎが「羅生門」を読むためには最も重要だと言えるか?


 どんな小説でも常に登場人物の特定の行為の必然性が物語の「主題」を支えるというわけではない。物語中にはとりたてて必然性に疑問のない大小様々な「行為」が描かれている。「羅生門」の下人は、雨止みを待ち、石段に腰掛け、老婆を取り押さえ、羅生門の梯子を上がったり下がったりする。その中には特別に理由を問う必要のないほど当然の行為も、理由の明示されている行為もある。その中で、「引剥ぎ」は特権的に重要な位置にある。


 下人の心が大きく変化した瞬間だから?

 だが「大きく変化」は他にもある。


 だが引剥ぎは悪への変化であり、これが主題につながるから?

 それは、重要だから重要だと言っているのだ。もちろん重要そうな見通しができるから、とも言えるのだが、解釈をする前に重要であることは言える。

 確かにその実行には、ある飛躍が感じられる。この行為は何を意味しているのか、そこに必然性を見出さないまま読み終えることができない謎が読者に提示されている。

 引剥ぎが重要だと見なせる理由はその飛躍の大きさとともに、単に物語の終わり近くの行為だから、でもある。

 だがそれだけではない。これこそが問題の焦点だと感じられるのは、この行為が冒頭近くの問題提起に対応しているからだ。

 その対応を示すのは、二つの箇所に共通する単語だ。

 何?


 「勇気」だ。

 「羅生門」では冒頭で行為に対する迷いが「勇気が出ない」と提示され、その行為が実行される場面で「勇気が生まれてきた」と語られる。

 つまり物語全体をこの問題と結論をつなぐ論理の中で把握するよう促されているのだ。

 この物語の構造は、明確にその論理を作者が読者に対して提示しているように見える。読者は下人が引剥ぎをすることの論理的必然性を理解しなければならない。


 「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」という問いは「何が下人に引剥ぎをさせたか?」という問い、すなわち下人に引剥ぎをさせた物語的な力は何か、を問うている。

 それはつまり「羅生門」という物語における引剥ぎという行為の必然性が問われているということであり、すなわち行為の意味が問われているということだ。


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