2025年12月8日月曜日

羅生門 9 未解決の問題

 「極限状況」+「老婆の論理」=行為の必然性という一般的な解釈は、一見確かにわかりやすい。だが上記に見たように、詳細に考えてみるとそれは脆弱な論理によってわかった気になっているにすぎない。

 だがこうした論理による「羅生門」理解に納得しがたい理由は他にもある。

 それは、 ある重要な小説要素がまだ解釈も、言及さえされていないまま、一般的「羅生門」解釈では論理が完結していることだ。

 それは何か?


 気になることはいくつもある。

 なぜ突然フランス語が使われるのか。

 なぜ「作者」がたびたび登場するのか。

 なぜ下人が一場面だけ「一人の男」と表現されるのか。

 だがこれらの疑問は些細なことだ。大学生だった芥川が技巧を凝らそうと工夫したのだろう、というくらいで看過して良い。

 なぜ「羅城門」が「羅生門」と書かれるのか。

 「羅生門」とも書くのだ。そこに「生死がテーマだから」などと説明するのはいたずらに理屈をこねているに過ぎない(しかも解釈できてしまったし)。


 下人の行方は?

 ある意味ではわからなくても良いのだが、わかる、とも言える。

 「羅生門」が最初に雑誌に載ったとき、最後の一文は「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。」だった。芥川は下人の最後の引剥ぎを、盗人になる決意として描いている。

 それを「下人の行方は、誰も知らない。」にしたからといって、そこまでの作品の論理が全く変わるわけではない(もちろん、重要な変更が全体の解釈の変更を要請するケースがありえないとは言わない)。

 少なくとも「行為の必然性」は変わらない。それに対する作品全体でのメッセージがいくらか変わることがあるにしても。

 だからまあ何となく余韻をもった終わり方にしたかったのだろう、くらいでいい。

 他に動物比喩が多用されているという指摘もあったが、再重要ではない。生が剥き出しになった動物的な世界を描こうとしている、などと説明すれば一般的解釈に収まる。


 「にきび」は?

 これは確かに解決が必要な問題だ。

 それは、とにかくそれが意味ありげだということに拠っている。繰り返し言及される「にきび」はどうみても単なる生理現象以上の何かだ。とりわけ結末で老婆に襲いかかるときに「にきびから手を離す」ことには、明らかに何らかの意味がある。

 「にきび」は何を表わしているか?

 ここでは「にきび」を「象徴」と捉えることが必須だ。

 「象徴」とは何か?

 「象徴」という言葉を誰でも知っているだろうが、それを次のように明快に答えることは難しい。

ある具体物がある抽象概念を表わしていると見なされること

 「鳩は平和の象徴だ」というとき、という具体物平和という抽象概念を表わしている。

 もちろん、鳩が単なる鳥類の一種である鳩そのものでしかないこともある。鳥類図鑑に載っている鳩はただの鳩だ。だが、「平和式典」のニュース映像などで青空を背景に飛ぶ鳩の群は、それが「平和」への祈念を表わしているという約束が成り立っている。そういう了解が表現者と享受者の間に成り立っているとき、それは「象徴」と見なされるのだ。

 小説などの虚構では、作者がそれを「象徴」として描くことが意図的であるかどうかはともかく、読者がそれを「象徴」として捉えることはある。「羅生門」の「にきび」などは、具体物として読むべきではない。「烏(カラス)」は「荒廃」や「不気味さ」だろうし、「きりぎりす」は「秋」であり「時間」だ(きりぎりすが姿を消すことで時間の経過が表現されている)。

 では「羅生門」における「にきび」は何の象徴か?

 引剥ぎの実行にあたって手を離すのだから、それは「迷い」「葛藤」の象徴だといえる。

 あるいはここまでの「一般的解釈」からすれば「良心」「正義」「道徳」「倫理観」あたりか。そこまで心にあった「良心」から手を離して引剥ぎをするのだ。

 あるいはそれを「若さ・未熟」などと表現することもできる。「倫理観に縛られて悩む若さ故の葛藤」などと言えば一続きに言える。

 そこから手を離させたのは「エゴイズム」だと言えば、「にきび」の解釈は従来の一般的解釈の枠内で可能だ。


 では何が?

 まだ重要な未解決要素とは何か?

 それは「にきび」以上に、読者にとってはあからさまに気になるはずであり、なおかつ一般的解釈の論理に組み込まれていない小説要素だ。

 それは何か?


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