「行為」に焦点を絞ることが適当であることを確認するために、この小説のもとになっている『今昔物語』の一編「羅城門登上層見死人盗人語」と読み比べよう。
原話と、翻案された小説「羅生門」の相違点は何か?
まず、原話の「羅城門」が小説では「羅生門」と表記されていることにすぐに気づく。
これはしばしば、小説が生と死をテーマにしているからだ、というような説がまことしやかに語られることがある。だがこれは眉唾だと思う。羅城門が羅生門と表記されるようになったことは歴史的な事実であり、別に芥川の創作ではない。どちらの表記も存在したのだ。それをわざわざ「羅生門」という表記を選んだのだ、と考えることにそれほどの蓋然性があるか怪しい。
次の2点は重要かもしれない。
老婆に髪を抜かれている死人の女の素性が違う。原話では老婆の主人、小説では蛇を干し魚と偽って売っていた女だ。これは芥川が小説化にあたって『今昔物語』の別のエピソードを合成したものだ。このことによって主題に関わる相違が生じているか?
また、原話では盗人は老婆の着物以外に死人の着物と老婆が抜いた髪の毛を奪って逃げる。だが小説では老婆の着物だけを奪う。このことは後の議論にどう影響するか?
次の諸点に気づいた者は注意力がはたらいている。
- 原話では羅城門の近くに人の往来があるが「羅生門」では人気はない。
- 原話では「日のいまだ明」るい時刻だが「羅生門」では上層に上がる頃には暗くなっている。
- 原話では雨が降っていないが「羅生門」では雨が降っている。
これらの描写が小説版の、陰鬱な雰囲気を醸し出している。
さて、最も重要な相違点として挙げられたのは各クラスで共通していた。
原話との最も重要な相違点は、原話での男の引剥ぎが、最初からそうしようとしていたものとして「迷い」が描かれていない、という点である。原話の「盗人」が小説では「下人」と称されている。
『今昔物語』の原話では「男はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いが生まれようがない。「盗人」が老婆の着物を剥ぎ取るのは当然であり、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。
ではこの原話は何を伝えたい話なのか?
この挿話の主題は、盗人の「行為」にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という「状況」そのものを読者に伝えることにある。老婆と男の「行為」も、その「状況」の一部だ。
一方「羅生門」では「状況」を背景にして、引剥ぎという「行為」の意味が前面に現れている。
「行為」は当然「動機」や「情動」によって意味づけられる。つまり下人の「内面」「心理」を考えないわけにはいかない。
そこにこそこの小説の主題を捉えるいとぐちがありそうだ。
下人が最後に実行する「引剥ぎ」は、確かによくわからない。なぜ彼はそれをすることにしたのか?
だがこの問いは自覚的な思考によって選ばれているわけではなく、一読した読者には自然に思い浮かんでいる、といった体の疑問でもある。
それを自覚的に問いとして立てる。下人はなぜ引剥ぎをしたのか? すなわち引剥ぎという行為の物語的な必然性、あるいは意味を問う。
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