2025年12月7日日曜日

羅生門 7 「極限状況」はあるか

 「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得る」ことで引剥ぎをした下人の行為を通して、「人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム」を描いていると考える「羅生門」理解はネットをみても一般的だといって差し支えない。

 こうした「羅生門」理解を「理解する」ことは、繰り返すが授業の目的ではない。「羅生門」が巷間そのように語られていることを知ることは、一般教養としてはささやかな「言語文化」の継承に資するとも言える。だが国語の学習としてはほとんど意味がない。

 それどころか、みんな気づいているとおり、これからこうした一般的な理解を否定するつもりなのだ。


 これまでたどってきたような「羅生門」の解釈に納得がいかないのは、端的に言って面白くないからだ。

 これは授業者個人がそれを面白いと感じないという意味ではなく、それが面白さとして想定されていると考えることができないということだ。

 このように理解される「羅生門」は浅はかで凡庸な小説だとしか思えない。このように書かれた小説が、そうした面白さを実現しているはずだと考える小説家がいるなどと思えない。

 こうした理解は、「羅生門」というテキストを、小説として読まず、ただ理解のための理屈を立てているだけだ。小説を読んだ印象と乖離している。

 授業を受ける生徒としてではなく、小説読者として考えよう。

 今までたどってきた「一般的な解釈」はどこがおかしいか?


 小説読者として違和感を覚えるのは、まず「行為の必然性」の根拠の前提が「極限状況」だとする説明だ。

 この説明はどこがおかしいか?


 「極限状況」は、確かにテキスト中に書かれている。

 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。

 つまり言葉の上では確かに「極限状況」ともいえるものは示されているが、下人に感情移入しながら読み進める読者が「極限状況」に置かれていると感じるような肉体的な感触は描かれてはいないのだ。


 そもそも授業者には昔から「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかった。「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、随分と暢気なものだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから素朴に言えば、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。迷う余地があるということは「極限状況」などではないということだ。

 小説読者が物語を受け取る上で、登場人物の不道徳な行為に対する抵抗のハードルは、現実よりもずっと低い。何せ虚構なのだ。そもそも小説は奇矯な世界を描くのだ。引剥ぎなど、「極限状況」という言い訳があればたやすく受け入れられる。そのような問題が「問題」となる倫理観など、小説読者は持ち合わせていない。だから「飢え死にか盗人か」という選択が問題になること自体がピンとこない。

 ここに「エゴイズム」という言葉をあてはめて主題を語るのも軽すぎる。「極限状況」であれば自分の命が優先されるのは当然であり、そのような根源的な生存欲求を、近代的個人が持つに至った「エゴイズム」などという自意識過剰な言葉で表わすのはまるでそぐわない。

 そもそも「エゴイズム」と「極限状況」を結びつけることに違和感がある。「エゴイズム」などという観念は近代的個人が持つに至った自意識過剰な自意識にすぎない。それは平和な日常においてこそ浮上する問題だ。本当に「極限状況」があるとしたら、そこでむきだしになるのは、もはやそのような言葉が追いつかないような生存欲求だろう。

 「羅生門」にそうした「極限状況」は描かれていない。


 「極限状況」も「エゴイズム」も、まるで内実を伴わない空疎な評語であるとしか感じられない。

 小説の読解は読者にとって一つの体験としてある。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、様々な要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。先の「問題」はそうした違いを無視して、観念的に設定されている。

 極限状況における悪は許されるか、人間存在のエゴイズムは肯定されるか、この小説の読者はそんな問いを生きはしない。ただ論者がそうした問題設定を観念的に弄んでいるだけだ。「小説の解釈」が「小説を読む」という体験から遊離しているのである。

 だから「生きるために為す悪は許されるか」などという問いを掲げて、そこに「カルデアネスの舟板」を引用したり、法律概念である「緊急避難」などを持ち出したりするのは、この小説を読むという体験とは何の関係もない(こういうことを言っている教師は世の中にいっぱいいる)。

 意識されてはいるものの確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「行為の必然性」を支えてはいない。

 それはすなわち、作者が下人の「行為の必然性」を「極限状況」に拠るものとは考えていないことを示す。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を立たせるはずである。読者を「極限状況」に曝すはずである。下人の窮状を体感させるはずである。

 それをしていない以上、「極限状況」が「行為の必然性」を根拠づけるという説明は説得力をもたない。

 「老婆の論理」をめぐる議論で、Aを支持する者が多かったのは、たぶんそのためだと思う。


 そうはいっても「極限状況」はやはり書かれてはいる。実際に下人は「そうしなければ、飢え死にをする」と言っている。この言葉を意味通り受け取ることには、先の検討の通り疑問もあるとはいえ、事実としての「状況」の存在そのものは否定できない。それは肉体的には描かれていないが下人の行為を動機付けるものとしてある。

 だが今問うている「なぜ引剥ぎをしたか」は、単に「何のために引剥ぎをしたか」ではなく「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」という問いでもある。つまり行為の必要性ではなく、変化の必然性を問うている。

 だから、引剥ぎをしたのが「生きるため」だとしても、そうした「極限状況」が行為の必然性をもたらすという物語の論理を支えるためには、「極限状況」が物語の進行に従って次第に下人の身に迫って――どんどん腹が減って――こなければならない。そうした変化が描かれていない以上、「極限状況」は行為の必然性を支えてはいない。


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