2025年12月5日金曜日

羅生門 5 ディベート

 「羅生門」読解のための最大にして最低限の問題について考え、それを主題として表現した。つまりどんなことを言っている小説なのか、はわかった。

 ではこれからは細かい問題か発展的な問題について考察していくのか。

 そうではない。やろうとしているのはやはり最大にして最低限の読解、すなわち「羅生門」とはどんな小説なのかを考えることだ。

 つまり「一般的」解釈を再検討しようというのだ。


 端緒として「老婆の論理」の二つの要素を検討する。

 下人が引剥ぎをする直前の老婆の言葉は「悪の容認の論理」「自己正当化の論理」などと呼ばれる論理を語っているが、ここには二つの理屈が混ざって語られている。

A 相手もしたことなら許される。

B 生きるためなら許される。

 このうち、どちらがより強く下人を動かしているか?

 行為の必然性を支えるのはどちらか?


 ここをとりあげるのは、意見が分かれるので議論が盛り上がって面白いから、ではあるが、考えるいとぐちになることが期待されるから、でもある。

 これを簡易ディベート形式で議論する。

 一般的な解釈によればBこそ行為の必然性を支えていることになるはずだ。下人は「生きるため」にやらなければならないという状況で、それをやったのだ。

 だが支持者は、学年全体ではA:B=8:2くらいの割合だった。

 Aを支持する者が多いことは、この解釈が意外と複雑な問題を看過していることを示している。


 さてAを支持する根拠としてどのクラスでも挙げられたのは次の一節。

その時の、この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 これがなぜAを支持することになるのか?


 「飢え死に」を「考えることさえできない」というのだから、生死が問題ではないのだいうことになる…。

 だがそうか?


 「飢え死に」と選択になっているのは「盗人になる」であり、「飢え死にを考えない」は「盗人になることしか考えない」ということだ。

 これは単に心が決まったと言っているだけであり、別にどちらかの根拠になるわけではない。


 ではAを支持する根拠として何が挙がるか?

 原話『今昔物語』の盗人が老婆の抜いた死人の髪や死人の着物も一緒に持ち去るのに対して、小説「羅生門」の下人は老婆の着物だけを剥ぎ取る。引剥ぎが生きるための実用的な行為であるなら、なるべく多くの物を奪うはずだ。これは引剥ぎが「生きるため」ではないことを示している。

 また、老婆が髪を抜く死体の女の身元は、原話では老婆の主人だったと書かれている。これが小説では『今昔』の別の挿話からもってきた、蛇を魚と偽って売っていた女に差し替えられている。原話ではAの論理がそもそも成立しない。この設定の変更によってAの論理が生じているのだから、この差し替えは、Aの論理の重要性を示している。

  • 男が奪った物
  • 死体の女の身元

 これらは、A支持と論理的に整合するが、だからAの方が重要であると直ちに根拠づけるわけではない。その改変には別の意味があるとか、大した意味はないなどということも可能だからだ。

 そもそもA支持者はこれらの論理によってAが重要だと感じたわけではないはずだ。まずAが重要だと感じ、それを根拠づける論理を探して、右の二点が有効だと考えたはずだ。


 一方B支持者は次の下人の言葉を挙げることができる。

では、俺が引剥ぎをしようと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。

 言葉通りとればこれは「生きるためにするのだ」と言っているのだから、Bを支持する根拠ということになる。

 だがこれに対してA支持者は、そんなのは単なる口実に過ぎない、と返すこともできる。

 これでは水掛け論だ。

 だがそれよりも、このセリフこそ、A支持者の「感じ」の根拠なのではないか?

 これを説明するのは難しい。だがこうした小説の微妙な表現のニュアンスを分析的に語ることこそ重要な国語力だ。

 下人はまず「では」と、老婆の言葉を受けていることを強調し、相手が「恨まない」はずであることを念押ししている。その上で「俺も」と、自分と老婆が同じ立場であることを、すなわち自分の行為が相手の論理に則っていることを殊更に主張している。つまりこのセリフは、下人が本当に生きるために引剥ぎをすることを述べているというより、老婆に自分の行為の正当性を認めさせようとしているところに重点があるように感ずるのだ。

 むしろこのセリフの印象こそA支持者がAだと感ずる大きな理由なのかもしれない。


 さらにA支持の根拠を挙げよう。

 必ず指摘すべき重要な論点は、下人が老婆の言葉を聞いた後「きっと、そうか」と念を押す声に付せられた「嘲るような」という形容だ。

 さらに同様の働きをしている形容をこの場面からあと二つ指摘したい。

 「かみつくように」「手荒く」だ。

 これら三つの形容は何を意味しているか?


 これは下人の心理状態を説明しているのであり、三つとも、老婆に対する攻撃的な姿勢を示している。

 「生きるため」に引剥ぎをするなら、老婆に対する敵愾心が表現される理由はないはずだ。

 さらにこの中でも「嘲るような」は的確な分析が求められる。「嘲るような」とは下人のどのような心理を表しているか?


 「老婆を見下している」「馬鹿にしている」は単なる言葉の言い換えにすぎないので不十分。なぜ「見下す」のかを説明しなければならない。

 ここでは、自己正当化の論理がそのまま自分に対する引剥ぎを容認する論理として跳ね返ってくることに気付かない老婆を嘲っているのだ、といった説明がほしい。

 お前、そういうこと言うなら自分がされてもいいよな?

 これらの形容は、作者が意図して付加しているのであり、その意味は必ず解釈されなければならない。そしてそれはAを支持しているように思われる。


 一方、Bの根拠を挙げるのは難しい。そのままBを言っている下人の言葉はむしろAを支持する根拠として解釈し直されてしまった。それ以外に挙がるのは次の箇所。

 この場面で「勇気が生まれてきた」と言われている「勇気」は、「門の下で欠けていた勇気」と説明される。

 これは物語のはじめの「『盗人になるよりほかに仕方がない』ということを積極的に肯定するだけの勇気」だ。つまり「生きるための悪」を肯定する勇気だ。Bによって肯定された「勇気」が下人を動かしたのだ。

 これは真っ当にBの論理を語っており、かつ下人の言葉ではなく語り手の言葉=地の文なので信頼できる。これに対するA側の反論はあるか?


 これに対する反論として切れ味鋭かったのはF組Tさんの言葉だった。

 「勇気」がBの勇気であることは認める。だが今問題にしているのは、何が下人を動かしたか、だ。その契機がAであると主張しているのだ。

 そもそもBは元々下人自身が自覚していたことであり、それでもできなかったのだから、この場面で下人を動かしたものは、門の下では下人になかった認識であるはずだ。それがAなのだ。

 この反論自体が、強力なA支持の根拠を示している。


 このやりとりは興味深い問題をはらんでいる。この議論の意味そのものが問われている。


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