ここまで8回の授業で「羅生門」を読んできた。
小説の読解は、ある意味では評論やその他の実用的文章を読むことと変わらない。テキスト細部から必要な情報を拾い上げて全体を構造化することだ。
同時に構造の中において初めて持つ細部の表現の意味を捉えることでもある。全体の構造化と細部の意味づけは相補的に働く。
「羅生門」の読解においてやってきたのはそういうことだ。
全体の構造をどう組み立てるかと、細部の表現をどう意味づけるかといった思考を相互に整合的に働かせる。
そうして現状で納得できる「構造」「意味づけ」が前回までに見てきた「羅生門」解釈だ。
以上のように示してきた「羅生門」の読解が難しい原因は三点あるのだと、今年腑に落ちた。
- 「老婆の論理」が行為に必然性を与えているという理路が揺るぎない前提として疑われないこと。
- 行為の必然性を生じさせる要因が問題なのではなく、行為を阻んでいた要因こそ問題なのだということがわかるのは、後ろから遡るしかないという構造上の必然からくる認識の困難。
- 高校生は「観念」という語彙を持ってはいないこと。
3はつまり「スキーマ」と「ゲシュタルト」の問題だ。
スキーマがないと、ゲシュタルトは構成されず、認識されない。
「小説を理解する」ことも「認識」の一種だから、それはつまり、あるスキーマによってゲシュタルトが成立したということだ。「エゴイズム」はそのようなスキーマであり、しかも近代文学を理解する上ではきわめて頻繁に用いられるスキーマだと言ってよい。
「羅生門」もまたそうして「極限状況におけるエゴイズムを描いた小説」というゲシュタルトによって人々に認識されている。むしろ「羅生門」は、1年生で読むことで、「エゴイズム」というスキーマを高校生に装塡する役割を担っていたというべきかもしれない。
だがそのようなゲシュタルトとしての「羅生門」は、底の浅い、弱い小説だ。だが別のゲシュタルトを構成するためのスキーマが授業者には長らく見つからなかった。スキーマがないとゲシュタルトは構成されない。像を結ばないばらばらな情報群として、「羅生門」というテキストは繰り返し読まれてきた。
「観念」という語は、そこに像を結ぶためのスキーマであり、そうしてできたのがここまで示してきたゲシュタルトだ。
だがこのスキーマは、高校生には装備されていない。
エゴイズムも装備されてはいなかったろうが、エゴイズムは「なぜしたか」と結びつくから、授業によってその解釈が示されると理解することは比較的容易だ。
それに比べて「観念」というスキーマは「なぜできなかったか」と結びつくから、上記2の困難を生むだけでなく、その語の持つ平凡さによって、かえって想起されにくい(「エゴイズム」という目立つ言葉はそのことによって想起されやすい)。
引剥ぎという行為の必然性は、それを容認する「老婆の論理」によって発動するのでも、「極限状況」の深刻化によって発動するのでもなく、ただその行為を阻んでいた幻想が消滅することによって生じている。むしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自ら確認している、と言うべきかもしれない。
引剥ぎという行為は現実的な実用性に基づいていると同時に、それが他ならぬ老婆に向けられることで、下人の現実認識を宣言するための象徴的な行為になっているとも言える。
以上のような授業者の結論は、実際はここまで述べてきたような問題設定に基づく考察の積み重ねによるものではない。発想は、下人のうちに最初に燃え上がった①の「憎悪」の描写が表す奇妙さを何とか言葉にしようと考えているときに、突然、結論として「降りて」きたのだった。それが「幻想・観念としての悪」という表現として形になったとき、下人が最初「悪」に踏み出すことを躊躇ってのはこのためだったのだと気づいたのだった。そこから、行為の必然性に至る論理、「羅生門」の主題へと結びつく論理が一気に開けた。
だからここまでたどってきた問題設定は、本当は解答から遡って逆順に設定されている。
「なぜ引剥ぎをしたか?」が「なぜ最初はできなかったか?」という問題であることは、その答えから遡ってしか発想できない。「なぜできるようになったのか?」と問う限り、それは例えば「老婆の論理」に拠るしかない。
だが授業ではみんな自身が考えることに意味がある。だから考えるべき問題が何なのかを明らかにした上で、その糸口を示す必要があった。最終的な到達地点がどこなのかを示した上で、そこにいたる道筋を辿ってきた。
「羅生門」の「主題」を捉えるためには、引剥ぎという行為の必然性を当面の問題として設定すべきであること。
その論理を明らかにするためにこそ「心理の推移」を追うべきであること。
「羅生門」の授業を貫く問いはこうして構想される。
これで、今年唯一の小説の読解を終える。
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