ディベートは楽しかった。
対立は盛り上がる。
だがどのクラスでも1時間では決着がつかなかった。検討も十分とは言えない。
だが重要な考察をするいとぐちにもなった。
「老婆の論理」と引剥ぎの関係を見直すことを企図したこうした検討から明らかになることは、問題は、下人がAとBのどちらに動かされているか、ではないということだ。
この議論を通して、何が明らかになるのか?
これはあてのない問いだ。だが議論が自己目的化しないために、自分たちが考えていることの意味を俯瞰して捉えるのは望ましいことだ。
問題はAかBのどちらが正解か、ではない。ABそれぞれを支持することがどのような意味をもっているかを自覚することだ。
最初に述べたとおり、この議論は「老婆の論理」と引剥ぎという行為の関係を詳細に検討することを目的にしている。
「ABのどちらが強く下人を動かしたか?」という問いに対して、A:Bの割合が3:7だとしたら、Bの方がより強い、と言っても良いが、問題は3が、この時初めて下人にもたらされた認識なのだから、Aが下人を動かしたのたのだと言うこともできる。共通した認識から二つの結論が導かれている。
つまり下人の引剥ぎがA「生きるため」であるとしても、下人を動かしたのはB「相手もしているならしてもいい」という論理だと考えることが可能であることを示している。
ここから、実は最初の問い「なぜ引剥ぎをしたか?」には、少なくとも二つの層があることが明らかになる。
「なぜ引剥ぎをしたか?」には「下人は何に動かされたか?」という問いと「何のために引剥ぎをしたか?」という問いが重なっているのである。Aは前者に答え、Bは後者に答えている、とも言える。とすれば、問題を整理すればA支持とB支持は融合できるのかもしれない。
もちろんそうではない、という立場もある。
あらためて立場を三つほどに整理してみよう。
- 下人の心を動かしたのはAの論理であり、この行為は老婆の論理をなぞることで老婆を処罰する意味合いがある。
- 行為は「生きるため」だが、下人は老婆のAの論理によって動くことができるようになった。
- 行為は「生きるため」であり、Aの論理は下人に不快感を与えてはいるが強く動かしてはいない。あくまでBの論理によって動いている。
下人の行為を123どれで捉えるかは、「羅生門」の捉え方、つまり主題に直結する。従来の「羅生門」理解は2と3を区別していない。引剥ぎはすなわち、これから生きるために盗人になることを意味する。
だが1では、この時の老婆に対して行われる行為だというところに重点がある。「生きるため」ではない。
元々A支持者だった者が支持する2でさえ、従来の「羅生門」理解とは違った理解を示しているはずだ。しかも12を支持する者の方がずっと多い。それは何を意味するかが問われなければならない。
考えるべきことを抽象的な表現で言うなら、引剥ぎという行為の「意味」が問われている、ということになる。
議論から見えてきた解釈の相違を選択肢として示すなら、例えば引剥ぎを実用的な行為と見なすか、象徴的な行為とみなすか、とでもいえる。3は「実用」、1は「象徴」である。
議論をすることはそれ自体、国語科授業としては意義のあることでもある。議論が盛り上がるのは楽しい。その盛り上がりを読解につながる考察に発展させられればなお意義深い。
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