2025年12月8日月曜日

羅生門 10 「心理」を考える意味

 一般的解釈において未解決な問題とは何か?

 これがみんなからすんなりとは出てこなかったのは、後に述べる理由もあるとはいえ、やはり注意深く小説を読んでいないからではある。

 実はそれは生徒ばかりの問題ではない。世の国語の先生も似たようなものだ。

 どれほど繰り返し「羅生門」を読んでいても、それが問題であることが意識できないのは、小説を読んでいるのではなく、「一般的解釈」によってこの小説がわかっていると思い込んでいるからだ。

 一小説読者として素朴に読めば、それが気にならないはずはない。


 「羅生門」を読むと、その詳細で異様な心理描写に誰もが違和感を抱くはずだ。執拗に描写される下人の心理は、その一つ一つに共感できないばかりか、にわかには理解しがたい飛躍によって急変する。

 最初の課題で「羅生門」最大の「謎」として既に「憎悪」や「得意と満足」や「失望」についての疑問が散発的に挙がってはいる。

 それらのどれかを単独でとりあげるのではなく、まずこれらを総括し、「下人の心理の推移」といった抽象度で表現できることが重要だ。そうした抽象的・包括的な把握こそ国語力というのだ。

 ところでようやく思考がそのような抽象度に届いたときに、それを「下人の心情」と表現する人は多い。だがここは「心理」という言葉を使いたい。特にここから先の考察には「理」を明らかにすることが重要なのだ。「心情・気持ち」という言葉は国語科教育が論理よりも共感を重視することの表れかもしれない。だがそうした表現は曖昧な読解を許容することになる。共感も、まず適切な読解の上にしか生じ得ないはずだ。

 小説に書かれていることには必ず意味がある。特別な意味はない、という「意味」でさえ、そう確定されるまでは、それは「完全な」解釈にはいたっていないということだ。まして「羅生門」の異様な心理描写が特別な意味を持たないとは到底考えられない。

 一般的な「エゴイズム」論的「羅生門」把握では、最初の「極限状況」と最後の「老婆の論理」を短絡させてしまえば、それだけで下人の「行為の必然性」は説明されてしまう。そこに中間部分の「心理の推移」が意味するものは組み込まれておらず、宙に浮いている。

 これが、従来の「エゴイズム」論が「羅生門」という小説を適切に捉えているとは思えない最大の理由だ。

 こうして描写される「心理の推移」には何の意味があるのか?


 わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその変わりやすい心理こそが「行為の必然性」を支えている、とする立論だ。

 根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにしたのも、不安定故の気の迷いだ。主題は「移ろいやすい不安定な人間心理」とでもいうことになる。

 確かに、推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえる。だがそれでは、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は逆に、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたま、ある時点でそちらに傾いた、ということになるのだから。そのような人物は、次の瞬間にはまた、自分の行為を反省して恥じるかもしれない。

 だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥ぎをする下人の行為には、何かしら、この物語における決着点を示しているという手応えを感ずる。

 それは、途中に描かれる心理のような「推移」の一過程とは違う、この物語の主題に関わる決着点であるという感触である。それは「不安定な心理」説とは相容れない。


 詳細な心理の描写には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずだ。そう考えると、老婆の長台詞に至る前までの「心理の推移」こそが「勇気を生む」必然性を用意しているのであって、老婆の言葉は、単なるBGMとまではいわなくとも、下人の心が定まる間の時間経過と捉えればいいということになる。

 「老婆の論理」ではなく「心理の推移」が「行為の必然性」に決着する論理を考えなければならない。



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