「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出す。
ここで考察すべき「心理」を以下の三点に整理する。梯子を登ってから老婆と応答するうちに下人の心に訪れる大きな変化である。
①「老婆に対する激しい憎悪」
②「安らかな得意と満足」
③「失望」「憎悪」「冷ややかな侮蔑」
①の直前の「六分の恐怖と四分の好奇心」までは不審な点はない。状況から自然に生じていることが納得される心理だ。③の後の「嘲るような」「かみつくように」は後ほど考察する。
これらの心理の描写や形容、すなわち記述そのものを分析せよ、と要求したいのだが、「分析」とは何を考えることなのか?
①の「憎悪」は明らかに問題だ。この「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。
思いつきやすい問いは「なぜ憎悪が湧いてきたか」だが、これも難しい。書いてあることは指摘できる。だがそれが腑に落ちないからこそ、それについて考えようとしているのだ。そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいる。だから自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。
「憎悪」がこのように書かれていることの意味を捉えたい。
そこでこう問う。
読者が①「憎悪」の描写に感ずる不自然さはどこから生じているか?
「憎悪」はまずその不自然さ故に考察すべきであると感じられている。その不自然さを分析する。
分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。そしてこれができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件となる。
「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げる。
こういうときにも「対比」の考え方を使う。どうだったら「自然」なのか、どうでないから「不自然」なのか、という説明を考えるのだ。
授業で提示されたのは次のような諸点。
- 急すぎる。いきなり。
- 激しすぎる。過剰。
- 憎悪の対象がなぜか一般化する(「あらゆる悪」)。
- 自分が被害を受けるわけでもないのに憤っている。
- 自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。
- 老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。
これらの特徴は、相反する方向性をもっている。
対象の一般化や自分が害を受けないことや理由の不明といった特徴は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれないがそうした納得はない。だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。こうした矛盾する方向性が、この「憎悪」を不自然だと感じさせている。
下人の「憎悪」は不合理でわけがわからない。作者はそうした不合理を充分承知の上であえてそのことを読者に明言してみせる。
従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。
悪であるとする理由がわからないまま下人が「憎悪」する不自然さに作者は意図的であり、なおかつ意図的であることを読者に伝えようとしている。
下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。
といって完全に理解することができなかったら、これはもっと読者の注意を引くはずだ。
下人の「憎悪」を読者はそれなりに了解してもいる。
死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか? とりあえず読者はどう理解しているのか? 通読したときには自分はどのように理解したのか?
「他人のものを盗むのは良くないことだから」ではない。本文には「下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。
とりあえずこんなふうに言えればいい。
死体の損壊を、死者への冒瀆と感じて憤っているのだ。
だがそんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか。羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか。そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか。
だからこそ、ここには「極限状況」などないのだ、とも言えるのだが、ともあれ読者はこの「憎悪」に違和感を感じつつも、下人が老婆を「悪」と決めつける判断は全く理解不可能というわけではないから、この「憎悪」の不自然さがどのような意味をもっているかを本気で追究することから巧妙に目を逸らされている。
読者が先回りしてこうした推測でひとり合点する一方、下人にはそれを判断することはできない、と作者はわざわざ明言する。
では作者は下人が判断した根拠を何と書いているか?
かろうじてそうと認められるのは「この雨の夜に、この羅生門の上で」だ。なおかつ「それだけで既に許すべからざる悪であった」という、これもまたよくわからない断定がなされている。
だがこれがなぜ「悪」と判断する根拠なのか、読者はわかったようなわからないような曖昧な気分にさせられる。
一方わかろうと思えば、確かにそれは不気味な雰囲気を醸し出している舞台設定だし、もうちょっと合理的に言っても、死体がごろごろ放置されているような場所に、わざわざ雨の夜にやってくるのは、何か不穏当なことをするつもりだからだろう、といった納得をすることはできる。
これは上記の、下人が老婆の行為を悪と判断した理由を読者が先回りして推測してしまうことと似ている。死人の髪の毛を抜くことは確かに悪いことのように感じる。そして「この雨の夜に、この羅生門の上で」しているのだから、確かに悪いことなのかもしれない。
さて、注意すべきはこの表現が羅生門の上層に上る途中にも見られることである。
この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。
この反復は何を意味するか?
こう言ってみよう。
これは、下人には があったことを示している。
さて空欄には何が入る?
「予断」が思い浮かんだら大したもんだ。高校生からは出てこない語彙だ。
「思い込み」「前提」あたりが出てくれば上出来。
「先入観」が出ればOK。
下人は既に老婆の行為を目撃する前に、それが異常なことであると決めつけているのだ。
これは下人が老婆の行為のわけがわからないまま悪と決めつけていることと正しく整合している。
下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような「死者への冒瀆」といった理解の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定され、代わりにによくわからない理由が置かれる。読者は居心地の悪い宙吊り状態におかれる。なのに、とりあえずの納得もできるから、それ以上には考えようとしない。
だが注意深く読むと「憎悪」についての描写、形容は、相反する方向に引き裂かれて、ねじれている。この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感できないという意味でも不自然だが、それだけではなく、こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがわからないことが、この部分を「不自然」と感じさせている。下人の心理が共感しにくいという以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことが「不自然」なのである。
こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。
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