2025年12月4日木曜日

羅生門 4 一般的解釈

 さて「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いに、現状で答えてみよう。

 謎だと言っているのに答えろとは矛盾した話だが、まあ現状で言えるだけ。

 言えることがないわけではないはずだ。全く支離滅裂な話ではない。それなりには引剥ぎにいたる条件や要因は言える。

 さてここでは、この条件・要因を二つに分けて言ってみよう。あるいは二つの要素を揃えて言おう。

 とりあえず「なぜ」と聞いているので、答えは「理由」だ。「~から。」で終わるように言う。

 そこに二つの要素を揃える。


 文型を指定する。

   において   を得たから。

 それぞれの空欄に当てはまる内容は?


 水色は言わば前提で桃色は言わば契機だ。

 こんなふうに言えば良い。

極限状況において老婆の論理を得たから。

 これはどのようなことを言っているのか?


 「極限状況」「老婆の論理」をそれぞれさらに二つの要素に分解しよう。

 三回の分解過程は、要するに分析的な思考をしようということなのだが、それによって考察を緻密にすることを企図している。

 難しくはない。答えを聞けばわかっていたことだと感じるようなことだ。

 とはいえ「極限状況」の方にどこのクラスも苦労した。抽象度を揃えて二つを並べるのが難しいのだ。「行き所がない」「腹が減った」「このままでは死んでしまう」はいずれも、それこそが「極限状況」なのであって、それを成立させる二つの条件ではない。

 さて、次の2点が揃えばOK。

  • 天災により都が荒廃していること。
  • 下人が主人に暇を出されていること。

 言わば社会的状況と個人的事情、二つが揃って「極限状況」を構成している。まず災害による人命の損失やそれにともなう人心の荒廃が語られる。仏具は打ち壊されて薪とされ、物語の舞台となる羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。そうした中で下人は失職して行くあてもない。それが「おれもそう(引剥ぎ)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた状況を招いている。


 次に「老婆の論理」。

 下人の引剥ぎの実行の直前、老婆が長々と語る理屈は「悪の容認の論理」「自己正当化の論理」などと言われるが、ここには二つの理屈が混ざっている。これを分ける。

A 相手もしたことなら許される。

B 生きるためなら許される。

 老婆は二つの理屈を混ぜてしゃべっている。


 さてこれで下人が引剥ぎをしたわけはわかった。

 だとすると、「羅生門」の主題はどのようなものだと考えられるか?

 「行為の理由」という具体レベルから、「小説の主題」という相対的に抽象度の高い問題に繋げるという抽象化の能力は、国語力にとどまらない重要な思考力の一つだ。

 どのように表現したら良いか?


 考えることは重要だが、これが一般的になんと言われているかをネットで調べることもできる。Yahoo!知恵袋やWikipediaで。あるいはAIに聞いてみてもいい。世の中には国語の先生のブログなどもあれこれある。

 いくつもの記事を読み比べてみると、共通した表現、頻出するワードがある。

人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム

 「羅生門」は「エゴイズム」を描いた小説だ、というのが一般的な「羅生門」理解だ。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」を「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得たから」だと考えることと、「羅生門」の主題を「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」だと考えることにはどのような関係があるか? 

 生きるために悪いことをしなければならない状況に置かれた下人が、生きるためには悪いことをしてもいいのだという老婆の言葉を聞いて、それをしたのだ、人間にはそうした悪=エゴイズム(利己主義)があるということをこの小説は描いているのだ…。

 つまり下人の行為、引剥ぎが、エゴイズムの発露として理解されているのである。


 このように、「極限状況」と「老婆の論理」は、二つ揃って行為の必然性を支え、それが「エゴイズム」という主題を具現化しているのだというのが、一般的な「羅生門」の捉え方だ。

 この論理に疑問はないように見える。

 だが本当にそうか?


0 件のコメント:

コメントを投稿

よく読まれている記事