2025年12月24日水曜日

羅生門 16 結論

 授業者が①に入る言葉として提示するのは「観念」だ。

 そう聞いてもみんなはただちにピンとはこまい。

 この語彙は高校生にはない。言葉としては知っているはずだ。だが「語彙」というのは「知っている言葉」ではなく「使える言葉」だ。「観念」という言葉を高校生は想起しない。知っているが使えない。

 だがこの小説を捉えるために、これより的確な言葉を思い浮かべることが、今のところ授業者にはできない。

 「観念」とは何か?


 辞書的な意味を確認するより対比の考え方を用いる。「観念」の対義語は?

 だが通常「観念」の対義語は辞書にはない。

 むしろ「観念的」という形容で考えてみるとわかりやすい。空欄の下に「的な」をつけたのはそのための誘導だ。

 「観念的」の対義的な形容は「現実的」である。「お前の考えはどうも観念的で、ちっとも現実的ではない」などという。

 「観念」とは、頭の中だけに存在する現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉だ。「観念的」とは「頭でっかち」とか「地に足が着いてない」とか「机上の空論」といったニュアンスの否定的な形容だ。「観念的な議論はいい加減にして、現実的な解決策を探ろう」などという。

 これで結論は出る。


 下人が門の下で「勇気」を持てなかったのは、下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。

 それはいわば現実性を欠いた観念としての「悪」だ。

 「a.正義(飢え死に)/b.悪(盗人)」の拮抗状態からbに進めない理由は、bに進む抵抗が強かったからだ。それが、老婆の答えを聞いた後に弱まる。それは下人の「悪」に対する認識が「① 観念 としての悪」から「③ 現実 としての悪」に変わったからだ。

 「羅生門」という小説は、ある幻想が消滅し、現実に覚める物語なのである。


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