2024年1月24日水曜日

永訣の朝 8 ―「おもて」にいる根拠

 二つの全く異なった読みを提示したが、どちらが正しいかをディベートのように議論することはできない。人数に偏りがありすぎるのと、結論が一方に想定されているからだ(ディベートはどちらも主張しうるような問題設定の時にのみ成立しうる)。

 語り手が詩の冒頭部分で「室内にいる」という読みの方が妥当性が高いと考える根拠はおそらく、ない。「おもては」にしろ「飛びだした」にしろ、室内にいることの根拠にはならない。なるように感じるのは前述の「因果関係の逆転」だ。


 実は授業者の思い描いていたのも、最初に「永訣の朝」を読んで以来永らく「わたくし」が室内にいる光景だった。

 それから30年あまり経って、授業者に別の「読み」の可能性をもたらしたのは高校生の息子だった。

 その授業では、詩の中で繰り返される「あめゆじゅとてちてけんじゃ」の変化が議論されたのだそうだ。そして、最初の2回はとし子の直接の発言で、後の2回は回想なのだという見解が示されたのだと。

 この見解は授業者も解説書で見たことがある。馬鹿げた解釈だと思う。授業者には、この言葉は4回とも回想されたものとして、エコーがかって聞こえてくる。たとえ最初の2回が、語り手が室内にいる場面だとしても。

 この馬鹿げた解釈は、語り手が2回目までは室内にいたことを根拠としてなされたものだが、この問題について議論してきた息子が家に帰って問題にしたのは、回想か直接の言葉かではなく、最初の場面で室内にいるという読みについてだった。彼は「みんな室内にいるって言うんだけど、私には最初から外にいるように思える」と言ったのだった。

 それを聞き、半信半疑でその可能性を検討したときの感覚は、いわゆるちょっとした「コペルニクス的転回」だった。驚いたことに、語り手が詩の最初から「おもて」にいて、今しも「みぞれ」をその身にあびているのだという解釈は他のどの詩句とも矛盾しない。それどころか、そう考えてこそ詩句の細部が整合的に納得されると感じた。


 そう、授業はそちらの解釈を合意する方向で展開する。

 ではその妥当性の根拠は何か?


 歴代の生徒たちや今年度のみんなが挙げた緒論点はいくつかある。

 そのうちでも最も多く指摘されるのは、室内にいるのなら6行目は「ふつてくる」ではなく「ふつている」の方が自然だ、というものだ。

 誰もがこれを認めるだろうが、では室内だと思っていた者は、これをどう納得していたのか?

 「ふってくる」のは空から地上に、だ。つまり自分のいる場所を、窓の外か室内かという区別をせずに「地上」という括りで捉えているのだ。


 あるいは12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだし」の文末の過去の助動詞「た」は、語り手の行動については詩の中でここだけでしか使用されていない、これは「飛びだした」が回想であることを示している、という主張もある。

 これもまた一理あるが、ではなぜ室内という解釈も可能なのか?

 「た」という口語助動詞は過去と完了の区別ができない(「模様のついた」の「た」は過去ではなく存続)。「飛びだした」は回想にも感じられるが、たった今の完了でもいいのだから、ほとんど現在時点の記述であるとも読める。


 まだ根拠は挙がる。

 9行目と12行目に注目すると「青い蓴菜の~」から「飛びだした」までが回想だと感じられる根拠が指摘できる。みんな誘導に乗って正しくそのことを説明できただろうか?

 ポイントは9行目の「これら」と12行目の「この」だ。

 このふたつの言葉を取り除くと、この部分が現在進行形の行為の描写であるように感じられるが、「これら」は、既に陶椀が語り手の手中にあることを示しているし、「この」は、既に語り手が「みぞれのなか」にいることを示している。だからこの5行がまるごと回想であるように感じられるのだ。


 これらはそれぞれに説得力があるが、といって「室内ではあり得ない」と言いうるだけの絶対性のある根拠ではない。だからこそみんな「室内」という解釈に対して疑問を抱かないのだ。

 だが語り手は最初から「おもて」にいると考えるべき最大の理由は他にある。

 詩の冒頭で語り手が「室内にいる」「庭先にいる」それぞれの想定において、詩の中のできごとを時系列順に並べ、そのどちらが自然かを想像してみよう。

 どのようなシミュレーションがなされるか?


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