主題再考の端緒として検討するのは次の一節だ。
要するに私は正直な道を歩くつもりで、つい足を滑らしたばかものでした。もしくは狡猾な男でした。(136頁)
Kが自殺する前、奥さんとの談判の結果成立した婚約の事実をKに打ち明けられずに逡巡する章段だ。
これもまた、一読者としては「わかった」ような気になって読み流してもよさそうな感触があり、だが説明しようと思うと一筋縄ではいかないことがたちまち明らかになる、という箇所だ。
まず「正直な道を歩く」とは何を比喩しているか。
解釈は次の二つに分かれる。
- 自分の心に正直にふるまう
- 公明正大な行いをする
1は、お嬢さんを自分のものにしたいとか、Kに負けたくないという自分の欲望・利己心に忠実にふるまうことを指すという解釈。
2は、嘘をつかない、隠し事をしない、卑怯なことをしない、の意味。直前に「真面目な私」という表現がある。また教科書収録以前には「私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。」といった表現もある。
二つの解釈1と2は反対方向を向いている。ここでの「私」が自分の心に正直にふるまう(1)ことは、「卑怯」な、許すべからざる行いであり、公明正大な行い(2)ではないからだ。
これらの解釈は、教員向けの解説書などにも、どちらも載っている。ただし、一つの解説書はどちらかの解釈だけを語る。別の解釈の可能性をいちいち考えているわけではないのだ。たまたまどちらかの解釈を思いつき、それを解説する。だが世の中には違った解釈をした人もいるのだ。
実際にみんなに聞いてみると、それぞれを支持する人の割合は拮抗している。
さて「正直な道」とはどちらなのか?
「正直な道を歩くつもりで」の「歩くつもりで」も謎を含んでいる。「で」という接続助詞(口語文法では格助詞)は次のどちらか。
- 歩こうとして
- 歩こうとしていたのに
1は順接的な接続という解釈。もっと強調して言えば「していたから」という因果関係があるような解釈だ。
2は逆接。
ほぼ、「正直な道」の解釈の1,2に対応している。
「自分の心に忠実にふるまおうとして、卑怯な行いをした」のか、「公明正大でありたいと思っていたにもかかわらず卑怯な行いをしてしまった」のか。
また、それに続く「つい足を滑らした」は何を比喩しているか?
この比喩は「Kに黙って奥さんと談判したこと」を指しているというのが、一般的な説明だ。
「足を滑らす」という比喩は「道を踏み外す」という慣用表現と類似している。「人の道に外れた」、つまり倫理に反するというニュアンスでこの比喩が、Kを裏切った卑怯な行為に対して適用される、という解釈なのだろう。
この解釈は「もしくは狡猾」とも整合する。奥さんへの談判はKに対する抜け駆けであり、「狡猾な」策略なのだ。
「滑った」という比喩は続く記述中でも二回使われている。
今滑ったことをぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまで滑ったことを隠したがりました。
この「滑った」には「Kを裏切った」がそのまま代入できる。
さらにこれはその前段の「弱点」に対応している。
もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前にさらけ出さなければなりません。真面目な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。
「滑ったことを→周囲の人に知られなければならない」「弱点を→自分の愛人とその母親の前にさらけ出さなければなりません」という文脈の一致が見てとれる。
さらに前段では「弱点」が次のように使われている。
私はなんとかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置にたちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難のことのように感ぜられたのです。
「私」が隠したいと思う「滑ったこと」は「自分の弱点」であり、それはまた「倫理的」な「弱点」なのだ。とすればそれはすなわち「卑怯」な「策略」によってKを裏切った行為を指すと考えられる。
こうして順序立てて考えていけば、「足を滑らした」という比喩の解釈については疑う余地がないように見える。
不思議なことに「正直な道を歩く」が1、2それぞれの解釈をとっても、この「足を滑らした」の解釈に整合する。
1の解釈をとるなら、自分の心に正直にお嬢さんを得ようとしてKを裏切ってしまった自分は「狡猾」であり「ばかもの」だ、と言っていることになる。
2の解釈をとるなら、公明正大な行いをしようとしてきたつもりだったのに、Kを裏切るという、「狡猾」で「人の道に外れた」行いをしてしまった自分は「ばかもの」だ、と言っていることになる。
それぞれに可能な解釈だ。両立しないはずの1,2の解釈のどちらをとっても上のような「足を滑らした」の解釈に整合する。
だが「足を滑らした」には、うっかり、失策、といったニュアンスがある。談判のように意図的な行為に使うには据わりの悪い比喩だ。ここに違和感はないだろうか?
0 件のコメント:
コメントを投稿