すべての言葉には「語り手」がいる。その存在感の濃淡には様々な程度があるが、すべての言葉は、誰かから誰かに対して発せられたものだ(独り言でさえ!)。
文章の場合、「筆者」などという言い方もある。さらに小説や詩などの場合には「作者」という言い方もあるが、「語り手」と「筆者」、「作者」は、それぞれ別の概念であり、対象は同一だったりまったく異なったりする。
三人称小説の場合は語り手の存在そのものが希薄になるから、作者と語りの違いはそれほど明らかには感じられない。
だが一人称小説の「私」は、基本的に作者その人ではない。うら若い少女の「あたし」を創造した作者が、中年の男性だったりする。
例えば手紙という体裁をとった小説の場合、語り手は明らかに登場人物の誰かであり、受け手もまたその手紙を受け取るはずの登場人物の誰かだ。「こころ」の「下」は語り手が「先生」で、受け手は大学生の「私」だった。
「語り手」という概念は、現実から虚構までの様々なレベルで想定しうる。
語り手と受け手が誰なのか、どのような関係なのかといった情報は、その言葉の解釈に強い影響を及ぼすメタレベルのコンテクスト(文脈)だ。
「語り手」は、虚構作品の場合、あくまでフィクショナルな存在だと考えなければならない。小説に比べると詩は虚構と現実の境が曖昧で、「私」が登場しなければ、語り手はほとんど作者に見えてしまう。だが作者と同一視されかねない「私」が語る詩でも、性別や年齢によって、「私」のイメージはさまざまでありうる。老齢の詩人が語る詩と青春期にある若者が語る詩とでは、読み方も変わる。
「I was born」の、中学1年生の出来事を思い出している語り手は、何歳くらいなのだろうか。彼を作者本人と考える必要はない。詩の中に描かれた物語そのものがおそらくフィクションだ。
とはいえ「永訣の朝」においては、「わたくし」は賢治その人のイメージと重なることを避けられない。妹とし子の死は現実の出来事だった。「永訣の朝」を読むほとんどの読者はそのことを知っている。だからそれ自体が解釈に影響するメタ情報であることを否定できない。
だが今問題にしているのは、詩を書きつつある作者ではなく、みぞれを採ろうとしている「わたくし」だ。この詩が「朝」という設定になっているのは、これがフィクションとして享受されることを保証している。現実には、詩は妹の死後に書かれているのだろうから。そして、我々読者にとっては常に作品は他人事なのだから。
さて、考えたいのはこの詩の中で、「わたくし」=語り手はどこにいるか、という問題だ。
語り手/受け手が誰なのかというだけでなく、語り手のいる場所が解釈にとって極めて重要な意味をもっていたのは「小景異情」の解釈においてだった。語り手が「ふるさと」にいると想定するか「みやこ」にいると想定するかで「ふるさとは遠きにありておもふもの」の解釈はまるで異なる。どのように?
端的な表現で言うならば「みやこ」にいる語り手が語っていれば「郷愁」とでもいうことになるだろうし、「ふるさと」にいる語り手が言えば「幻滅」とでもいう情感が詠われていることになる、という昨年の考察を授業でも確認した。
「永訣の朝」の場合、語り手のいる場所は、この物語を体験する読者にとっての映像的なイメージに関わっている。ここでは「語り手」とは、そこで語られている情景を捉えている視点、情景を写すカメラのようなものだ。
たとえば次の例文において、語り手はどこにいるか?
a.彼は部屋の中に入ってきた。
b.彼は部屋の中に入っていった。
c.彼は部屋の中に入った。
三つの文で示される事態は同一だ。違うのは「語り手」のいる場所だ。
それぞれの文の「語り手」はどこにいて、どのような情景を見ているか?
言うまでもなくaは室内でbは室外(廊下?)だ。
aではドアから入ってくる彼の顔が見え、bではドアの向こうに消える彼の背中が見える。
一方「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの抽象的な文では、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。
だが「c.彼は部屋の中に入った。」では、事態は充分に具体的だが、語り手のいる場所は明確ではなく、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。
だから本当は、「語り手」という概念は、単にカメラに例えられるような空間的に定位できる「視座」のことではない。cの語り手は、その事態を知りうる存在であり、そのことを誰かに伝えようとしている存在であり、登場人物を「彼」と呼ぶ存在である。だがその存在感は稀薄だ。
それに比べ、この詩において、みぞれを採りに走る「わたくし」の存在感は明確であり、読者がこの詩を読みつつある今、確実にこの詩の中にいる。
それはどこか?
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