「永訣の朝」で、兄である「わたくし」は死にゆく妹のためにみぞれを採りに外へ走る。
兄がみぞれを採りにおもてに出るのは「あめゆじゆとてちてけんじや」と妹に頼まれたからだ。
なぜ妹は兄に、みぞれを採ってきてくれと頼んだのか?
これも特に難しい問いではない。まだ準備体操の範疇だ。
だが一見簡単そうに見えるこの問いから、ようやく手応えのある考察が展開できる。
この問い「なぜ頼んだのか?」、つまり頼んだ理由は、二つ挙がる。次の二種類だ。
- 詩から直接引用できる理由。
- 詩に書かれてあることから間接的に推測される理由。
二つの理由はそれぞれ次のようなものだ。
- 兄を一生明るくするため
- 高熱にあえぐ喉を潤すため
2は、「おまへがたべるあめゆきをとらうとして(10行目)」から、とりあえずは「食べるため」とも言える。だが、なぜ食べるのか、まで含めていいたい。
兄が妹の頼みでみぞれを採ってくるという行為は、兄に、また病室にいる人々に、どのように了解されているか。そうした了解を読者も共有しなければならない。理由は知らず、みぞれを食べたいと言う妹のためにみぞれを採りに走るわけではない。なぜ妹がみぞれを採ってきてくれと頼んでいるかは、それを食べるためであると病室の皆に了解されているし、なぜみぞれを食べたがっているのかも、妹がはっきりと口にしたかどうかはわからないが、やはり皆に了解されているはずだ。兄がそれを訝しんでいる様子がないのだから。そうした当然の了解を確認したい。
したがって、「おまへがたべるあめゆき」と「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから」を結びつけて、熱があるので冷たいものを口にしたがっているのだ、と考える。
1は、18行目にそのまま「わたくしをいつしやうあかるくするために」とある。
さてここからが考えどころだ。
最初に問われた時に思い浮かべたのは、二つのうちどちらか?
聞いてみると必ず両方に手が挙がる。どちらが多いとも言い難い。
二つの答えはどちらも正しい。ではなぜ二つの答えが挙がってしまうのか。そして二つの理由はどのような関係になっているか?
この問いは抽象的でわかりにくい。
もう少し準備運動をする。
「みぞれを採ってくること」がなぜ「兄を一生明るくする」ことになるのか?
この因果関係の機制は、必ずしも「わからない」わけではないはずだ。読者には、ある納得がある。
だが「わかる」ことよりもそれをすっきりと「説明する」ことの方が難しい。説明し、相手に同意を得るところまでを含めての国語力を高めようというのが授業の目標だ(勉強とは「わかる」のではなく「できる」ことを目指す)。
この「なぜ」はこんなふうに説明できる。
妹のささやかな最後の頼みを叶えることが、妹の最期を看取る以外に何も出来ない兄の無力感を、いくらかなりと救う。その小さな救いが、それ以降の兄の生を明るくする、と妹は考えているのだ。
さてでは、こうした妹の心理に基づく答1と答2はどういう関係になっているのか?
もう一つ、準備運動。
1と2を対照的な熟語で表すとすると、どんな対比で表せるか?
「相手のため/自分のため」「利他的/利己的」「精神的/肉体的」「心理的/生理的」…。
だがこれではまだ「関係」が明らかになったとはいえない。二つの理由はそれぞれ間違っていないとすると、それらは単に並列的な、一石二鳥といったようなものか?
面白いのは、1と2を「本音/建前」と表現する者に対し、「建前/本音」ではないかという意見が出たことだ。
同様に「一次的/二次的」というA組K君の表現も、逆に「二次的/一次的」ではないかとも考えられる。
どちらにもそれなりに腑に落ちる感触があるとすると、これは一体何を意味しているのか?
もう一つ、「想像/事実」という対比も上がった。「建前」は「嘘」に近いから、「事実」はどちらかというと「本音」側だろう。とすると「建前/本音」に一票というところか。
だが逆に「事実/想像」は言えるか? 1と2のどちらが「事実」なのか?
「正解」は、この詩の中では決定できない。
これは作品における「事実」とは何か、という問題だ。
どちらかというと2はおおよそ「事実」と認めていいだろうが、1については、語り手の主観が入っている。そして一人称の小説や詩の作品中で語り手が語ったことは、うっかりすると自動的に作品内の「事実」と見なされてしまう傾向がある(これは「こころ」でさんざん経験したことだ)。
だがそこに保留が必要なのだ。だから1を「事実=本音」と断定するのは早い。これは単なる兄の「妄想」なのかもしれないのだ(C組T君は最初から「妄想/事実」と対比した)。
だからこのような論理を自覚した上で、最後にどう納得するかは、読み手の好みの問題になる。
最初の「関係」については?
いくつかのクラスで「内包」「包含」という言葉が聞こえてきた。「入れ子構造」でもいい(入れ子ってなんだ? マトリョーシカを思い浮かべれば良い)
ここには、次のような心理が入れ子状に重なり合っている。
- みぞれを食べたいというとし子の欲求(答①)
- とし子の1の欲求を叶えたいという賢治の希望
- 2の希望を実現させることで兄の無力感、罪悪感を軽くしたいというとし子の配慮(答②)
- 妹の要請が3の配慮に拠るものなのだと考える賢治の推理(妄想?)
つまりこの一節から読み取れることは〈「『(妹のために何かしてやりたい)と兄が思っている』と妹が考えている」と兄が考えている〉ということだ(こういうのを「入れ子構造」という)。
こうした、互いの心理についての推論の重層構造を、詩を読む我々が明晰に意識しているわけではない。しかしなおかつ詩を読む我々はそれを了解しているはずだ。
自分が了解しているものを自覚的に分析すること、さらにそれを他人に説明することの難しさはいかばかりか。
さてこの考察は、さらに後の読解の伏線になっている。
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