2024年1月1日月曜日

こころ 63 -近代理性への疑義

 それぞれの場面・状況において「私」が「言わない」理由は、それぞれに説明しようとすればできる。

 そして基本的な構造として、「言わない」が「言えない」になってしまうのは、前に言わなかったから、なのだ。この先言うためには、なぜあの時は言わなかったのか、という疑問に答えなければならなくなる。つまり「言わなかった」こと自体を隠さなければならない。

 これはいわゆる悪循環・再帰性だ。言わなかったという結果が言えなくなることの原因になるという、循環した因果関係をつくっている。

 だから「言えなかった」という事実が「利害を考えて黙っていた」のではなく、「ただ」「言えなかった」のだという116頁の説明は、この場面で「言えなかった」ことに必然性を認めるような理由があったのだという説明よりも、この「遅れ」の感触を強調している。

 同様に、上に引用した「足を滑らした」に「つい」という、見ようによっては無責任な副詞が冠せられているのも、同じニュアンスだと考えればいいのではないか。

 「私」は「正直な道を歩くつもり」だったというが、そのような「つもり」がどこに存在したというのか。

 だが「私」の自覚としてはそうなのだ。そして「足を滑らした=黙っていた」ことは「つい」なのだ。

 まずとにかくそのことが起こる。そしてそのことのもつ意味は「遅れ」てやってくる。

「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」(「上/十四」)

 これは主に奥さんへの談判を指していると思われるが、上記の状況に重ねて言うならば「私」は「いや考えたんじゃない。言わなかったんです。」とでもいうことになる(「談判」もまた「言わずにやった」のだ)。

 だが、「言わなかった」ことが「もう言えない」になることを、「私」は予め知ることができない。そうなってから「遅れ」て、そのことを知るのだ。

 そしてこの「遅れ」が何をもたらすかも。


 「私」はこの時、自らも恋の告白を口にできなかったことで、この後のお嬢さんをめぐるKとの争いは決定的に困難な状況におかれることになる。これ以降、Kに対する秘密を抱えたままで全ての行動をおこなわなければならない。

 それは、「私」にはもう正当な手段でお嬢さんを手に入れることができないということを意味する。

 といって人知れずお嬢さんへの思いを断ち切ることはできない。それは愛するお嬢さんを失うというだけでなく、Kに対する敗北をも意味するからだ。

 つまり「私」は、自身の選択に決定的な制約を受け続ける事態の中で、しかし断念することもできずに宙吊りにされるのだ。


 また、Kが自殺してしまった今、Kに対する謝罪は勿論、後に妻になるお嬢さんにすら、このことを釈明することはできない。Kに謝罪できないままKに死なれてしまうということは、損なわれてしまった「倫理的に正しい自分」という自己イメージを取り戻せないということであり、しかもそのことをこの先、自分の妻に告白することもできないまま生きていかなければならないということだ。お嬢さんとの結婚が実現に向かって進んでいくにもかかわらず、そのことを公明正大に喜ぶことはできないのだ。

 ここでも、可能性の喪失はすぐさま完全な断念に決着せずに宙吊り状態におかれることになる。


 この宙吊り状態も、悪循環の再帰性も、「山月記」の李徴の陥っている状況に似ている。李徴もまた、エゴイスティックになろうとしながら、自分に利するように自由に何かをすることなどまるでできなかった。


 恋の自白も自殺も、Kがそれをすることに対する「予覚」が無論あるはずはないが、それよりも問題はそれによって引き起こされる事態への「予覚」だ。「私」はそのことについて周囲の人に「言えない」状態に陥るが、同時にそれは常に中途半端な宙吊り状態として「私」を捉え続ける。

 もちろん常に「言えばよかったのに」とは言える。そのことが潜在的であれ、予想ができていたのなら、そんなことは事前に充分に想定しておくべきだったのだ、などと「私」を断罪したり侮蔑したりすることもできる(そういう言説を目にすることがある)。

 だがそれは、人間の理性に対する過度の要求だ。

 「私」は事態の展開に致命的に「遅れ」ている。「遅れ」は、その事が終わってから、つまり「遅れ」たという事実が生じた後に確定されるしかない。

 この「遅れ」は不可知であり、それゆえ不可避だ。

 にもかかわらず、もっと早く行動を起こしていれば良かったのに、という後悔は猛然と襲ってくる。前もってそうした展開を想定すべきだったのではないかという非難が、誰知らず聞こえてくる。

 「私」はこの時、いわば相手がゴールした後で、実はそれまで競走をしていたのであり、それはもう終わってしまったのだということを初めて知らされたのだ。

 後には永遠に敗者となるべき結果だけが示されている。

 確かに走っていた自覚はある。だがそれがゴールの設定された、対戦相手の存在する競走だことは知らされていない。ただゴールも意識されぬまま「早く」という焦りだけが「私」を動かしていたのだ。そして相手がゴールした後で、もっと急げば良かったという後悔が襲ってくる。

 だがこれは実はKとの競走でもない。「先を越された」のは、Kに、ではない。Kは「私」よりも早く告白しようなどとはしていないし、先に告白したことによる何らの利益もない。

 Kもまた敗者だったのであり、誰を勝者とすることもなくただ「もう取り返しがつかない」結果だけが走者たちの前に投げ出されるのだ。

 「予覚」もないところに「後悔・悔恨」を想定するのは暢気に過ぎる。競走の自覚のなかった走者たちには、レースの終了は不意打ちでしかないのだから。


 こうした考察からは「黒い光」をどのように捉えられるか?


 「取り返しがつかない」というのは、レースの終了によって「私」が陥る状況を指すのだから、恋の自白の場面では、先にKに自白されてしまったことによって恋の競争において決定的な劣勢におかれてしまうことであり、自殺の発見の場面では、Kやお嬢さんに対する釈明の機会を失ったことだ。

 そして先に見た「黒い光」=「自意識の牢獄」に囚われてしまうことだ。

 物語の構造から考えてみた時、この「黒い光」が象徴する未来への影は、単なる「罪悪感」として「私」一人が背負うべきものでなく、登場人物すべてに投げかけられた、不可避的な運命の決定不能性に対する人間の無力さ、とでもいったようなものだ。

 この「黒い光」は、恋の自白の場面や自殺の場面だけでなく、無論、奥さんがKに婚約の件を話してしまったことを奥さんから聞く、土曜日の昼間の場面にも射している。それだけではない。上野公園の散歩の最中の会話の中でも、夜にKに声をかけられた時にも、談判をした時にも、夕飯の席でそのことを言えなかった時にも、常に「黒い光」は微かに「私」を照らしている。我々は常に状況に縛られて、そうせざるをえないようにふるまっているのであり、事態の展開に常に「遅れ」ているのだ。


 「エゴイズム」が主題だと考えるということは、「私」が自らに利するように何事かを選択し、行動しているとみなすことだ。「私」は「エゴイズム」ゆえに、その結果に対して「罪悪感」を抱く。

 それは近代における個人とは自由な存在であり、自らの意志で自らの行為を決定できるという前提の裏返しだ。

 だが「私」の行動は、いつも事態に「遅れ」、それに縛られるようにして決定されていく。

 とするとすれば「こころ」という小説は、主体的な選択をする自律した近代的個人のエゴイズムを描いているかのように見えながら、その実、運命に弄ばれるようにして事態の展開に「遅れ」続ける人間を描くことで、大げさに言えば「近代理性への疑義」を表明しているのだ。

 これが「こころ」という作品から見出される、もう一つの主題だ。


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