前項の糸口の二つ目、四つの状況に共通する構造は何か?
- Kの告白
- 「足を滑らす」
- 奥さんがKに言ったと「私」に言った
- Kの自殺
これらに共通する構造は、糸口の四つ目、「私」が常に直面している問題「言う/言わない」と三つ目の「しまった」を合わせれば発想できるはずだ。何を「取り返す」ことができないかといえば、「言う」機会だ。1や4ではKに、3では奥さんに「先を超されて」、自分から「言う」ことができなくなって「しまった」のだ。
まずこの「感じ」を、このように表現するところが第一歩。
2「足を滑らす」もまたそういうことなのだと授業者は考えている。
多くの解説書がこれを、Kに黙って奥さんに談判したことだと説明している。
「狡猾」までならその説明でいいかもしれない。だが「失策った」には対応しない。談判することのどこが「失策」なのか。
だからこの比喩が指し示している「滑らした」状態とは、その談判の後で、それが秘密として「私」の手に余るようなものになっている状態を言うのだと捉えたい。談判の時点ではそうなることを十分に予測せずに行動して、気づいてみると言えなくなっている。これもまた「しまった。取り返しがつかない」なのだ。
ただし1・3・4のように、明確な誰かに「先を越されて」いるという状況ではない。
だが「言えなくなっている」という状況である点においては4つの状況とも共通しているし、それが、後からそれがわかる点においても共通している。2もまた、いささか無理矢理言うと、状況に「先を越されて」いるのだと言える。
では糸口の一つ目、「予感」はどう考えたら良いか。
その事が実際に起こる前に、自分はそれが起こることを知っていたのではないか?
問題は、それ起きた時の「私」の構えだ。純粋にそれが出し抜けに起きたのだとすれば、超能力者でない身に、予感など抱きようもない。
だが「私」は何の構えもなく、その瞬間を迎えているわけではない。
四つの場面にいたる前提となる状況の共通性を確認しよう。
どのような状況においてその瞬間を迎えるのか?
とはいえ「自白」の場面については、そこが教科書の収録部分のほぼ始まりなので、その前の状況は直接本文から読み取ることができず、教科書の収録部分以前の「あらすじ」の記述や、この場面から後の数日間の記述を参照する。
そして「自殺」の前の状況から、「自白」の前にも同じような状況があったとしたら、どのような状況なのかを推測する。
結論としては、どの場面でも、「私」が何かをKに言おうとして言い出せずにいる、というのが共通した状況だ。
恋の自白の場面では、Kだけでなく「私」こそがお嬢さんへの恋心をKに打ち明けようと長らく思い悩んでいるのだし、自殺の場面では、すべてをKに打ち明けて謝罪することが「私」の前に横たわる喫緊の課題だ。3も、奥さんがKに話してしまったということは、いっそう一刻も早い告白と釈明が必要だ(それなのに「私」はここでもそれをとりあえず明日に回す)。
2「足を滑らす」は談判の後だから、新たに成立した婚約という事態は公開されなければならない。奥さんは始終それを要求してくる。それは「私」にとっても苦しい事態だ。
どの状況でも「私」は、Kに何事かを言おうとして言い出せずに迷っていたのだった。
とすれば、多くの人が感じる「予感」めいたものとは、後から振り返った時に捏造される錯覚かも知れない。言わなければいけないことはわかっていたのに先延ばししていたのだ。その焦燥感が、後から「予感」があったのだという感触として語られている。
とすれば、「取り返しがつかない」とは、Kに「先を越され」て「しまった」から、この先はもう言えなくなって「しまった」ということにほかならない。
どうしてそういうことになるのか?
Kに先に恋の自白をされてしまうと、もう「私」には自らのお嬢さんへの思いを表明することはできない。この心理は容易に共感できるが、それがなぜかを説明することは容易ではない。だって言い出しづらいじゃん、ねえ? では説明にならない。
なぜ、もう言えなくなるのか?
自らもお嬢さんが好きだということは、既に潜在していた三角関係を顕在化することになるからだ。
なぜ顕在化することを避けなければならないのか? だって気まずいじゃん(「Rの法則」の雛壇女子高生)、ではだめだ。
三角関係が顕在化するのを「私」が避けなければと思ってしまうのは、「私」はKに敵わないと思っているからだ。三角関係とは「私」とKが競争相手になるということだ。だがKの方が頭が良く、意志が強く、背も高いし顔だって良いような気がする(と書いてある)。
「私」は、三角関係が露わになってしまえば自分が敗者になるであろうことを予見しないではいられない。したがって三角関係であることは表面化してはならない。
だからもう「私」が言うことはできない。
だがこの説明は、次の一節と微妙に不整合だ。
Kの話がひととおり済んだ時、私はなんとも言うことができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいるほうが得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も言えなかったのです。また言う気にもならなかったのです。
上記の説明は「利害を考えて黙っていた」のだということにはならないか?
「私」が黙っていたことに理由をつけるならば、上記のように言うのはおそらく間違っていない。
にもかかわらずなぜ上記の一節が書かれなければならないのか、という問題は、意外に深いところにつながっていそうだ。
なぜとっさに「自分も」と言えなかったのかという問題だけではない。その後も「私」はずっと言えないままになってしまう。それはなぜか?
この点については後で再説する。
一方、138頁では、「私」はKを出し抜いたことについて、Kに釈明しなければ、と思いつつも踏み出せない。「五、六日」の間、蜿々と逡巡する、言い訳じみたくだくだしい思考が続く。
そうするうちにKの自殺によってその機会は永遠に失われてしまう。
このことはなぜかくも重大なのか?
それまでの「卑怯な」ふるまいを自ら告白していれば、一時の恥辱を耐えれば再び「倫理的に正しい自分」を回復することができる。
Kのいない今、その可能性は断たれてしまった。となれば「卑怯だった自分」を抱えて生きていくしかない。
だがそうした痛みも、時間が経てばなし崩し的に忘れていくこともできるかもしれない。
だが問題はそれだけではない。
私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。(「五十三」)
先にも引用した一節だ。
「言えない」はKに対してだけではない。Kの死という重大な結果を招いた以上、それをもたらした(と「私」が思っている)自らの行動については、これ以降、後に妻になるお嬢さんや奥さんに対しても「言えない」ことになるのだ。
どれも、自分から言う前に「先を越され」ると、もう言えない、という「取り返しがつかない」状況に陥っている。
「ほぼ同じ」という、既視感にも似た共通性は抽出できた。
「ほぼ同じ」「感じ」を説明するために、「私」の反応の共通性を挙げても意味がない。問題は「私」に同じ反応をさせる状況の共通性だ。
状況とは、直接的なKの行動のことではない。「恋の自白」と「自殺」という行為そのものの共通性を挙げても、状況の共通性は明らかにはならない。
この瞬間の前後の変化、この出来事が及ぼす影響にこそ、「私」が看取した「ほぼ同じ」「感じ」の核心がある。
ここから「黒い光」をどのように表現したらいいか?
そしてこのことが示す「こころ」の主題とは?
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