さて、「歴史的な役割」と「別の主張」とともに、もう一つ、文末近くの次の一節についても問う。
思考の誕生に立ち会うことは、貴重で、残酷な体験ともなるでしょう。あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。
この一節で「思考の誕生に立ち会うこと」はなぜ「残酷」と形容されているのか? あるいはどのような意味で「残酷」なのか?
以上三つの問いは、相互に関係づけて考えることでそれぞれが明確になる。
どういうふうに関連しているのか?
「別の主張」とは何か、と問うと「自分で考えることは大事」という主張に対立する主張なのだと考えたくなる(ちなみにChatGPTに「別の主張」とは何か訊いたら「本文では述べられていないので推測だが」と断った上で、まさに「対立する主張」を答えた)。
そうではない。対立しているのは、こうした主張を「歴史的な無知」と言う蓮實であって、「別の主張」をしたがっているのは、蓮實にそう言われてしまっている人だ。「別の主張」とは、表に表れた「自分で考えることは大事」という主張の裏に隠れた、いわばその人の本音とも言うべき「主張」のはずだ。根っこは同じなのだ。
そしてその「本音」とは、「思考の誕生」に立ち会うことの「残酷」さを避けたいという情動だ。「別の主張」とは「残酷」さから目を逸らしたいという動機に基づいてなされている。
それはまた「自分で考えること」の称揚の「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくない、という動機でもある。
これらに共通する動機とは何か?
さらに、昨年から何度も話題に上がった認識が、ここでも参照される。
試みに、昨年読んだどの文章を思い出した? と訊くと、「『つながり』と『ぬくもり』」「ほんとうの『私』とは?」「〈私〉時代のデモクラシー」にそれぞれ手が挙がった。
それらに共通する認識は何か?
「近代における『個人』の確立」である。
ああっ、また、と思う? 思ってほしい。
この言葉が使えれば「歴史的な役割」について説明するのが随分楽になるはずだ。
近代以前、人は属する集団や宗教によって規定される存在だった。近代はそうしたさまざまな「くびき」から人々を解放し「個人」を生み出した…といった表現は去年読んだ文章群で繰り返し使い回された。
現代はそうした近代への反省が求められている(これを「近代の超克」と呼ぶ)。
最初に読んだ「自立」シリーズでは、他人に依存しない「個人」を良しとする近代的「個人」観から、互いに緩やかに依存し合う社会のイメージが語られている。その後の「『つながり』と『ぬくもり』」では、孤立した「個人」の寂しさが語られ、人々がつながりあうことが称揚された。
だがそうしたポジティヴな面には、一方で「残酷」な反面もある。
そうした認識をネガティヴに語っていたのは例えば「〈私〉時代のデモクラシー」であり「空虚な承認ゲーム」であり「暇と退屈の倫理学」あたりだろうか。
そこではどんなネガティブな面が語られていただろうか?
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