我々が使用する東京書籍「現代の国語」教科書の読解編4「共に生きる」という単元には三つの文章が並べられている。
「単元」?
授業の流れのあるまとまりを「単元」と言う。教科書は三つくらいの文章をひとまとめにして一つの単元として編集されている。
この単元は「共に生きる」というテーマの共通性によって括られているのだが、実はこの単元はそれ以外に明らかな企図がある。
文章の読み比べだ。
授業で評論を読むときには、ほとんどの場合、複数の文章を読み比べる。
最初の「授業を始めるにあたって」で、教材の文章を理解することは授業の最終的な目的ではないと述べた。とはいえ、理解しようと思って読むべきではある。だが「理解しようと思って読む」というのが、何をすれば良いのかは、実はわかったようでわからない。
そこで何かしらの課題を投げる。問いをかける。
それに答えようとすると、その前提として理解せざるをえないように課題を設定するのだ。「理解する」を最終目標ではなく、途中経過に置く。
その課題の一つとして、文章の読み比べを設定する。
比べることは人間の頭の働きの基本的な形式だ。
それがそれであることは、それ以外のものとそれを比べることによってしか認識することができない(意識的にであれ無意識的にであれ)。
単に一つの文章を「理解する」のではなく、複数の文章を読み比べると、読み比べることによってその文章を明晰に読むことができる。
読み比べる時には、まず共通点を探す。
違う文章は違うことを言っているに決まっているので、まずは比べるために共通の土俵を用意する。共通点がなければ比べることはできない。
この単元の三つの文章は読み比べるために設定されているので、共通点が比較的容易に意識できる。それは何かと聞きたいところだが、教科書で既に解説されている。
しかし敢えて訊く。20字以内くらいの簡潔な一文で言え。
これもまあ教科書に書いてはある。三つの文章に共通した主旨は例えば次のように表現できる。
自立とは相互に依存することだ。
文章が書かれるには、書かれるべき動機があるはずだ。文章は通常、そのことを知らない人か、そのことに反対する人に向けて書かれる。知らない人がいない、反対する人がいないことを文章に書く必要はない。だから文章の主旨は、潜在的にであれそれに反する主旨に対立するように書かれている。それを意識すると、その文章の主旨は明確になる。
これは、どのような主張に反しているか?
実は教科書では丁寧に、これがどのような通説に反しているかも解説している。通常「自立」とは「依存しないこと」という意味だが、それを敢えて逆転させて「依存すること」と言っているのだ。
そこで、上記を「~ではなく~」という文型で言ってみる。
自立とは依存しないことではなく、相互に依存することだ。
このように、本文の主張がどのような見解に対する反論なのかを意識することは、上の「読み比べ」同様、比べることの重要性そのものである。
さて、共通点が既に指摘されてしまっているので、あとはそれぞれの文章独自の論旨・論理展開を概観しよう。
三つの文章は共通して「自立とは相互に依存することだ」という論旨を語っている。
ではそれぞれの文章は、どのようなモチーフ、どのようなキーワード、どのような観点から、そうした主旨を述べているか?
ここでも「比べる」ことを意識する。文中に登場する対比を手がかりに使う。
評論における対比の重要性は、上の「読み比べ」の有効性と同じ原理だ。それが何であるかは、それ以外のものとの比較でしか捉えられない。
最も重要な対比は言うまでもなく「自立/依存」だ。「自立」について語ろうと思ったら「依存」との対比において語るのは必然なのだ。それは既に上の「共通した論旨」で語られている。
あと二つ、と言えばすぐに見つかる。
できる/できない
リーダー/フォロワー
これらの対比を使って、上の主旨を語ってみよう。
まず「できる/できない」。
自立とは通常、独りで「できる」ことだと見なされる。「できない」のなら依存するしかない。
だが必ずしも独りで「できる」必要などないのだ。独りで「できない」のなら誰かと協力して、相互に依存しながら「できる」ようにすればいい。それが「自立とは相互に依存できること」なのだ。
「リーダー/フォロワー」の方がやや難しい。
いくつかのクラスでは「リーダーとフォロワーが互いに依存しあって『できる』ようになればいいのだ」といった言い方で説明する発表が相次いだ。
まちがってはいない。だがこの言い方では「リーダー/フォロワー」という対比がどうして措定される必要があるのかわからない。リーダーかフォロワーかに限らず誰でも、互いに依存しあうのが良いのだから。
ここは例えばこんな風に言ってみる。
リーダーシップが大切だと世間では言われている。だが本当に大切なのはフォロワーシップだ。フォロワーは「依存」する存在ではなく、相互に助け合う役割をもっているのだ。
このように「普通は~だと考えられているが」とか「~ではなく」といった言い方こそ、繰り返し言っている通り、比べることで意味が明確になる、の実例だ。
ところでこれは誰の「自立」のことを言っているのか?
「リーダー/フォロワー」という対比が示すことがらが捉えにくいのは、それが誰の「自立」のことを言っているのかがわからないからだ。リーダーが自立するのか? フォロワーが自立するのか?
どちらでもない。
これは本文から一語、という指定をすると「社会」という言葉が飛び交った。
ことは個人の自立にとどまらず、「社会」の問題なのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿