「共鳴し引き出される力」(伊藤亜紗)には「自立」という言葉は出てこない。だがその主張は上の二つの文章と濃厚に重なっているように思える。
この文章の主張をまとめ、それと「自立」というテーマの関わりを示そう。
この文章にも「できる/できない」「ネットワーク」がキーワードとして登場する。そこにもう一つ、この文章独自の論点を表わすキーワードを加えて、それらを使ってこの文章の論旨を語ってみよう。
どこのクラスでも共通して挙げられたのは「能力」という言葉だ。これは題名の「引き出される力」のことだろうという見当はつくし、「できる/できない」との関わりも明らかだ。
これらのキーワードを使って本文の趣旨を語り下ろす。
「能力」は普通は個人に属するものだと考えられている。だが、他人との「共鳴」の中で引き出される力を、あらためてその人の「能力」と言ってしまってもいいのではないか。
つまり独りで「できない」のなら他人との「ネットワーク」の中でできるようになってしまえばいいのだ。
そのような新たな「能力」観を提示しているのがこの文章だ。
ところで「キーワードは?」と訊いたとき、複数クラスで「予防/予備」が挙がった。確かに文中にそのまま「キーワードは」と書かれている。
キーワードと言った場合、普通は文中で複数回使われている言葉がその資格を持っていることが多い。それだけ論理にがっつり関わっているということだ。
だが「予防/予備」は一度しか出てこない。実はこの言葉は、この文章の主旨を捉える上での重要度は比較的低いのだ。
だが面白い問題ではあるのでとりあげよう。
では「予防/予備」という対比を使って語られているのは?
まず本文で「予防ではなく予備だ」と言っていることに注目しよう。「~ではなく」は前に述べたとおり、対比を示す典型的な目印だ。この形で並べるときには、下を肯定的に取り上げるために、上が対比的に否定される。
「予防」はどうして否定され、「予備」はなぜ肯定されるか?
本文では「失敗を未然に防ぐよりも失敗が起きたときにそれをネットワークの中で解決できるように備えておくこと。」の後に「予防ではなく予備」と言っている。単なる言い換えだということはわかる。
なぜか? と訊くならその直前「そうした忖度(=予防)が結局、当事者の自由やチャレンジする機会を奪い、ますます無力にしていく」に「から」をつけるだけでいい。
だがそこで終わりにせずに、さらに「なぜか」と問う。
それに答えるにはやはり対比の中で捉えるのが有効。
「能力」を「個人に属するもの」と考えるのが「予防」思想なのだ。その人が「できない」なら、困らないよう守らなきゃ、と考える。障害を「防ぐ」思想になる。
だが「能力」を「ネットワークに属するもの」と考えるのなら、そのネットワークを「備える」ことが重要なのだ。
したがって、この対比は、能力観をめぐる「個人/ネットワーク」という対比に対応しているということになる。
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