5つ目に読み比べる文章「『つながり』と『ぬくもり』」の筆者・鷲田清一(きよかず)は「真の自立とは」の筆者でもある。授業で読んだ文章の筆者の名を覚えておくことは有益だ。次に問題集であれ模試であれ、大学入試であれ、同じ人の文章が出題されたときに、読むための構えができる。内容的に重なっていることも少なくない。初めて読む文章でも、そうした構えがあることは有利だ。
さて、この文章を「読み比べ」よ、と要求されるのは、かなり難易度が高い、と感ずるはずだ。
今度は、単純に「同じことを言っている」では済まない。
だがまずは「同じこと」を探さないと「比べ」ようがない。
共通点は?
題名に「つながり」とある。もちろん他者と、だ。
ということは?
そう、これも「他者とのつながりは大事だ」という認識が共有されているのだ。
その上で読み比べるのだが、5編全てを共通させようとすると、語れることが薄くなってしまう。「他者とのつながりは大事だ」という共通性に基づいて、論点をもう少し限定して、「『つながり』と『ぬくもり』」と他の4編のどれかを比較する。
さて、何を糸口に語ろう。
あちこちから「できる/できない」を糸口にしているらしい声が聞こえる。なるほど「『つながり』と『ぬくもり』」にも「できる/できない」が出てくる。ということは「真の自立とは」と「共鳴し引き出される力」とつなげて考えることができるかもしれない。
とはいえ「真の自立とは」は同じ鷲田の文章なので、ここは伊藤亜紗と鷲田が、「できる/できない」という対比を用いてどのような論を展開しているか比較してみよう。
ここでもまずは共通点だ。その上で相違を語ってみる。
伊藤・鷲田に共通するのは、雑に言えば、「できる/できない」で分けてしまうのは良くない、といったような認識だ。「できない」と言われて排除されるのはつらい。
ではどうするか。ここからが相違点だ。
伊藤・鷲田の主張を「できる/できない」というキーワードを含む形で端的に表現する、というだけでもまずは上出来。
だが、単に「並べる」ことと「比べる」ことは違う。並べられても、だからどうだというのかわからない、ということもある。関連づける観点を示さないと、「問題」が見つからない。
例えば、伊藤の主張は「できない」としても誰かの助けでできればいいのだ、という「行動」面についての主張をしていて、鷲田は「できる」ことを求められるとつらいので他人との「つながり」によって自分の存在を確かめたくなるといった「精神」面について論じている、とまとめたのはC組のSさん。「行動/精神」といった対比を用いて、二人の論の違いを示した。
同じくC組のHさんは、伊藤の「できる/できない」は障害のある方が「できる/できない」ことを問題にしており、鷲田は若者や子供が「できる/できない」で悩んでいることを問題にしている、と対比した。論の対象となっている対象者の範囲の違いを示した。
こうした、対比的な言葉をそれぞれの文章に対応させて比較するのも有効だ。
ところで「できる/できない」を、それぞれの文章ではどのような言葉に言い換えているか?
伊藤の文章では「能力」がそれにあたる。
鷲田の文章ではそれが「資格・条件」という言葉で表現される。
ここから「できる/できない」で分けるのは良くない、だからどうすると言っているのか、と考えてみる。
伊藤は、「できる/できない」は、個人の「能力」のことを言っているから良くないのであって、他人との共鳴の中で「できる」ようになることもあるといい、そのような「能力」観を提示している。ここでは「能力」をめぐって「個人/他人との共鳴」という対比がある。
鷲田は「資格・条件」で価値付けられるような社会の息苦しさから、若者は「他者による無条件の肯定」を求めるようになっている、と言っている。「できる/できない」という評価基準そのものからの離脱を述べているのだ。対比は「資格・条件/他者による無条件の肯定」だ。
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