「メディアが作る身体」では、前回の「全体」の把握を短く済ませて、「部分」の読解に時間を費やした。最初に読解に入ったF組で「わからないところを挙げて」と無茶振りして挙がってきた箇所を、後のクラスでも考察した。
文字によって私たちは…長文を「記憶」する必要もなく、いつでも膨大な情報へとアクセスでき、メディアを経由して「想起」することができる(もちろんこの「想起」は単なるインプットではなく、外部化された「記憶」の検索作業でもあるのだが。)
考察対象としたのは括弧内だが、もちろん解釈には括弧の前の部分から読む必要がある。「部分」を解釈するにも、文脈を見渡すことが重要だ。
さてこの部分が「わからない」と感じるのはなぜか?
わからないと感じるのはなぜか? と考えるのは「I was born」の読解の時にも試みた。「わかる」ためには、なぜ「わからない」かを分析して戦略を立てる必要がある。また、説明とは誰か「わからない」と感じている人に対してするものだ。その「わからなさ」がどのようなものであるかがわからなければ、適切な説明はできない。
この括弧内の記述の「わからなさ」は次の3点による、というのが授業者の分析。
- 「ではなく」型の対比がここに含まれているのは間違いないが、何と何が対比されているのか?
- 「想起」は「思い出す」のだから「インプット」ではなくむしろ「アウトプット」ではないか?
- 「想起」と「記憶」になぜ括弧がついているのか?
これらの疑問が解消するように説明をする。
まず対比されているのは何と何か?
文型からは「インプット/検索作業」という対比なのだと考えたくなる。つまり「想起はインプットだ」と「想起は検索作業である」が対比され、「単なる」前者が否定されているのだ。
そう考えて二つ目の疑問につきあたる。「想起はインプットだ」って何だ?
そうではない。並列的に対比されているのは「インプット/外部化された」だ。
これが両方とも「記憶」に係っている。文脈を読むにはこの「係り受け」を正しく把握することが重要だ。
この文の係り受けが把握しにくいのは荻上チキの文章が不親切だからだ。ここは「インプット(した)記憶」と「外部化された『記憶』」とが並列なのだと、丸括弧内(した)を補って考える必要がある。
それさえ把握できれば、この文は次の二つの文の合成であることがわかる。
- 想起とはインプットした記憶の検索作業である。
- 「想起」とは外部化された「記憶」の検索作業でもある。
つまり、脳内に覚えている情報を検索して思い出すのが通常の「想起」だが、単にそれだけではなく(それに加えて)文字で記録した情報を検索することも「想起」だと言っているのだ。覚えている電話番号を思い出すのが普通に言う「想起」だが、電話帳から探し出すのも「想起」と呼ぼうというのだ。
こうして文構造を把握してしまえば、言っていることは至極あたりまえのことだ。暗記してあることでもメモしておいたことでも、必要な情報が取り出せれば「想起」なのだ。
「わからない」のは、その内容が複雑だったり深遠だったりするからではなく、単に構造が未整理だからなのだ。
もう一カ所は次の一節。
「昔に返れ。」といった説教が、感情的メンテナンスの役には立っても、システム構築の代案としては常に無効だったように…。
ここは、具体例を出して説明せよ、という条件をつけた。
評論文の一節が「なんだかわからない」と思っている時には、具体と抽象の変換が滑らかにいっていないことが原因であることがある。抽象的な記述は、どのような具体例を想起すればいいかわからない時に「わからない」と感ずるし、具体例が挙がっていても、それを抽象化できなければ「わからない」。
特にここでは「感情的メンテナンス」を必要としている人がどのような人かを的確に言うことができれば問題は解決する。クラスによって、これを的確に言える班がいくつ目の指名で回ってくるかはさまざまだった(「説教する人」「説教される人」等々、全く違うとは言わないが適切ではない)。
ここでは「新しいメディアについていけないことに不安を抱いている人」と言えればOK。その「不安」が和らげられるのが「感情的メンテナンス」だ。
また「昔に返れ」という説教が「説教」であるためには、それなりの一理がなければならない。だから、新しいメディアの登場によって起こるマイナスの面を挙げなければ「説教」として成立しない。
さらにそこで期待されている「システム」が何のシステムなのかが、やはり具体例に応じて抽象的な言葉で表現されなければならない。
これらの条件を満たすように具体例を設定する。
例えばEメールで連絡したのに、直接対面での報告をしなかったからミスが起きたのだというような「説教」に対し、脇で聞いていた、同じくEメールを使いこなせないことに引け目を感じている人はホッとするが、それでは新しい連絡システムは構築できない、といったような例はすぐに想起されていい(ちなみに課題の提出が遅れた人はメールでなく直接言いに来いと言っている当授業者は、彼がどんな口調でどんな表情で言い訳をするのか直に見たいと思っているのであって、Eメールを活用した連絡システムを否定する気はない)。
クラスによってシステムの例として「連絡」「流通」「決済」「宣伝広告」「記録」「情報共有」「教育」「接客」など、いろいろな例が挙がったが、こうした抽象度の言葉でそれを表せるようにしておくことも大切。こういうことができるのが国語力。
上の「想起」をめぐる一節の直前に次の一節がある。
ソクラテスはタモスの言葉を借りて、文字を「記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣」であると批判したが…
これがなぜ「批判」なのかも問うた。
これもまたわかってしまえば呆気ない。ソクラテスは文字は「想起」を可能にはするが「記憶」の助けになるわけではないと言っているのだ。これは裏返して言えば、文字で記録することはむしろ記憶の妨げになるともいえる。書いておけば良いと思うと、人は覚えておかなくなる。
実はこれも上記の「説教」なのだ。文字はその時代、新しいメディアだったのである。ソクラテスは文字を操る一部のエリートに脅威を感ずる人々の不安を代弁して「感情的メンテナンス」をしているが、世界はその後、文字を使った「記録システム」を構築していく。
上記二つとも、解釈が済んでしまえば、きわめて日常的に経験する事例であって、何か特に深遠な、複雑な話をしているわけではない。
だがこの二カ所の解釈に、それぞれ30分くらいの時間を費やすことになってしまったのは、1年の終わりとしてはいささか情けない。10分くらいで片付けたい。「昔に返れ」から「初心に返れ」という「お説教」を連想している人が各クラスにいたのは、文脈を把握していないこと甚だしい。
だがこれは単に「読解力」とか「理解力」という問題ではなく、どちらかというと「問題の整理力」というか「説明力」の問題だとも思う。上で解説したような解釈を、ほとんどすぐに「わかっていた」人も多いと思う。だがすぐにそれをそのように班員で共有することができたかといえばそうではないはずだ。
これは「議論力」とでもいうべき問題であって、このあたりは今後の課題だなぁ、と思う。
今年度の終わりに心に留めておく。
時間がなくなってしまったが、次の一節も気にはなる。
今や、全ての身体は、象徴的な義体なのである。
「義体」という言葉をこの世代の人が使うときは、間違いなく「攻殻機動隊」がイメージされている(3:40のカットがとりわけ有名)。
上の劇場映画版第一作の監督をした押井守がインタビューで答えている。
ここで1:14:00あたりから押井が喋っているのは、まるで上記の荻上の言葉そのものだ(2分くらい聞いてみて)。「象徴的な」の解釈が若干揺れる。そうした身体の在り方は社会の在り方を「象徴している」という意味で「象徴的な」なのか、もっと軽く、「比喩的な意味で」くらいのニュアンスなのか。どちらもそれほど違いはないが。
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