「市民社会化する家族」は、単独の文章として読むには、それなりに難しいと感じるかもしれないが、今は「である/する」図式と対照させながら読むという構えができているから、頭の使い方が限定されて、それなりに読むことができるはずだ。
二つの文章の対応する箇所はさまざまに指摘できる。時間がとれなかったのは残念だが、発表する時間をとれば、多様な対応箇所が挙がる(過去の授業では)。
例えば冒頭の一文。
ひと昔前までの家族の研究は、封建的家制度と近代的家族との比較に重点を置いて、家族面における封建制から近代への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。
「封建制」を「である」、「近代」を「する」と措定すると、この一節は次のように言い換えられる。
ひと昔前までの家族の研究は…家族面における「である」から「する」への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。
「する」化がポジティブに評価されるのは「『市民』のイメージ」に顕著な姿勢だ。つまり家族が「市民」化するのは、かつては肯定的なイメージとして評価されていたのだ。
そうした肯定的なイメージは、その後どうなったか?
子どもを「市民」として扱うこと、また老人を普通の成人と同列に「市民」として扱うことは、一つの暴力である。
ここでは「家族」を「する」論理で扱うことを「暴力」と否定的に表現している。
成人は会社で働いたり選挙で投票したりする。そこでは「する」論理による行動が求められる。
だが家族における「子供・老人」を「市民」=「する」論理で扱ってはならない。「機能・実用の基準・効果・能率」で子供や老人の価値を量るのは、確かに「暴力」だ。この子は何の役に立つのか? などと言わず、その子には「それ自体」の「かけがえのない個体性」があることを認めるべきなのだ。老人には、緩やかな「休止」の時間が流れていて、そこにある豊かな「蓄積」に敬意を払うべきなのだ。
「する」論理が否定的に語られ、「である」価値の重要性が述べられるということは、「市民社会化する家族」は丸山真男の後半の主張に重なってくるということだ。
この文章の主題は題名に明らかなように「家族」だ。
つまり「家族」は、丸山が挙げる学問・芸術、あるい閑暇や教養とともに、「である」価値を認めるべき領域ということになる。
とするとこの文章は丸山の言う「過近代」的な問題を論じているということになる。
「近代」はどのように語られているか。
近代を最もよく特徴づける制度は、合理的な経済制度である。
「合理的な経済制度」とは言うまでもなく「する」論理だ。
さらに、
近代を理解するかぎが市民社会の中にあるとしばしばいわれたのは正しい。それは(略)経済的市民社会が作り出し、分泌する「精神」や「行動様式」が社会制度の隅々まで浸透していくことを意味するのである。
「市民社会」とは「する」論理が「社会制度の隅々まで浸透してい」った社会だ。
そこでは「かつての共同体のメンバーがバラバラにアトム(原子)化」する。
毎度おなじみの「近代における〈個人〉の確立」!
そうした「する」化がポジティブに語られる「『市民』のイメージ」と違い、「市民社会化する家族」では次のように語られる。
私たちは、現在、(略)「保守的な」観点から、現代の「社会化」を批判する態度を確立しなくてはならない。
「保守的」は丸山も言う通り「である」推しの姿勢だ。ここから現代の「社会化」=「する」化を批判すべきだというのだから、これはまさに丸山真男の後半の主張と重なる。
以上のような「『市民』のイメージ」と「市民社会化する家族」の論旨を、「『である』ことと『する』こと」の図式にあてはめるとどうなるか?
このように、「である/する」図式は、「近代」に関わる問題について把握する手がかりになる。
汎用性があるのだ。
同時に、「問題」について考えるというだけでなく、国語的に言えば、評論の読解の手がかりにもなるということだ。
多くの評論は「近代」批判の姿勢であることが多いので、基本的には「過近代」的問題を論じているということになる(「『市民』のイメージ」は「近代」礼讃の論だったが、これはむしろ珍しい)。
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