2024年3月4日月曜日

「である」ことと「する」こと 15 -男の絆、女たちの沈黙

 全クラスでは時間がとれず、読まなかったクラスがあったのは残念だが、尹雄大「男の絆、女たちの沈黙」は読み応えのある文章だった。「市民社会化する家族」のように、抽象的な言い回しが続いて、何のことを言っているのかを把握しにくい文章とは違って、具体的な場面が描かれ、語り口も平易で、いわば「とっつきやすい」文章ではあるのだが、結局どういう主張が、どういう論理展開でなされているか、簡単には言えない。

 この文章が描き出している問題を「である/する」図式で捉えることは、さらに一つの課題ではあるのだが、同時に、そう考えてみることが尹が言っていることの感触を明確に掴む一つの方法でもある。単にこの文章が「わかる」という感触を得るための読解でもあり、同時にこの「社会」をどう考えるかという問題群のバリエーションとしてこの文章を読むのだ。


 授業では本文を二段階に分けて読解した。

 まず最初の3分の1ほど、電車内の不快な出来事からの考察。ここでは筆者は、乗り込んできた不埒な男を批判する立場にいる。

 だが3分の1ほど、読み進んだところから潮目が変わる。この問題をめぐる対立のうち、今度は自身が批判される立場になってしまう。

 筆者の立場が逆転するこの論理展開をまず把握しよう。

 前半の問題では、「『である』ことと『する』こと」の社長とタイピストの関係が連想される。とすれはこれは「非近代」的問題を取り上げているのだと言える。

 具体的にどう言えば良いか?

 この不遜な男は、会社における人間関係を、それ以外の人間関係にまで適用している。これはつまり人間関係の「物神化」だ。男は会社内での自分の立ち位置を「身分」のように錯覚しているのだ。

 近代では、社会において人は皆、個人として平等だというのが前提だ。この男はそうした近代的前提を無視している。「する」論理に反している。


 後半の論旨はこれより複雑だ。

 筆者の指摘するこうした現代社会の問題は「非近代」的問題なのか? 「過近代」的問題なのか?


 試みに手を挙げてもらうと、両方に手が挙がる。それは授業者の狙い通りだ。

 どういうことか?

 E組S君の表現を借りるなら、この文章はいわば「過近代的な問題が非近代的に根を張っている」社会の問題を告発している。「過近代」と「非近代」は内包関係にある。しかも相互に。

 どういうことか?


 論理の整理には、毎度「対比」を使うのが常套手段。

 文中からいくつかの対立項目が抽出できるが、ラベルとしてふさわしいのはもちろん題名にも明らかなように「男/女」だ。この軸にそれ以外の対比を並べていく。

 男/女

論理/感覚(感情)

簡潔/複雑

社会/個人

意味/声

 これらの対比が「する/である」の対比なのだという「感じ」をまず掴む。それはどのように説明・論証できるのか?


 「する/である」を言い換える言葉を「『である』ことと『する』こと」から用意しておく。ここでは「する=機能・効率・実用/である=それ自体・かけがえのない個体性」あたりを使うのがいい。

 筆者の言う「(男)社会」は、「意味」だけを「簡潔」に示すような、「機能」的「効率」的な「論理」が通用する「社会」だ。つまり「する」論理だ。

 それに対して女たちの話は「複雑」な「感情」を伝える「声」によって成立する。それはその人「個人」の「かけがえのない個体性」を示すものだ。

 そうした「である」価値が、「(男)社会」の「する」論理の中では否定されてしまう。


 このようにこの対比を把握する時、これは「である」価値を認めるべき領域(女)に、「する」論理(男)が侵入・蔓延しつつある「過近代」的状況を告発しているのだと、ひとまず言える。

 だがそこでいう「論理」=「する」原理は、「男に他ならず、この社会における特権的な立場にある」という「する」論理の「物神化」=「である」化によって保障されている。

 「複雑な事柄をのっぺりと均してしまっていて、その見方を疑いもしない」のは「不断の検証」を怠っているということだ。「そもそも僕らの体験を構成しているあり方を検討しなくてはいけないのではないか?」という筆者の問題提起は、男の論理が「自己目的化」=「である」化していることへの疑問だ。

 「自分の中で慣れ親しんだ、男社会の平均的な感覚に従って考えているだけ」とか「彼女たちは「(男)社会」の既存のやり方に従って話すことを求められる」とかいった硬直化した「思考習慣」こそ悪しき「である」状態=「非近代」的状況だ。


 筆者の提起する問題が「過近代」とも「非近代的」とも見えることは、以上のように故あることだ。切り口によってどちらの断面をも露わにする。

 「である/する」図式はこんなふうに、いくつかの評論文を読解する手がかりでもあり、その問題を「近代」とか「社会」の問題として大きな問題圏の中で捉え直す手がかりにもなるのである。

 折にふれ、思い出して使い回したい。


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