思惑としては、3年生の最初の授業では、1年生の時に読んだ鷲田清一「『つながり』と『ぬくもり』」を再読するつもりだった。
1年の時にはこれを「自立」をテーマとした文章群に並べて、「近代における『個人』の確立」という文脈で読んだのだった。
それを改めて読み返すのは、今ではこれが「である/する」図式でも読めることを示そうという意図だった。近代は「する」化していく推移だと今ではみんな認識しているはずだ。「『つながり』と『ぬくもり』」をそうした文脈で読むと、どんな主張だと捉えられるだろう。
さてこれがTeamsの準備不足で、最初の授業でできないクラスがあり、次の予定の小林秀雄「無常ということ」を読み始めてしまったら、もう後戻りして「『つながり』と『ぬくもり』」を1時間挟むのが面倒になってしまった。
そのうちどこかで再説できれば。
さて「無常ということ」だ。
さほど長くはない。といって長い文章の一部というわけではなく、これだけで完結している。
戦時下の1942年に書かれ、長らく高校教科書に載り続けてきた文章で、授業者もまた高校時代にこれを教科書で読んだ。いわゆる「人口に膾炙(かいしゃ)した」文章だ。
とりあえず読む。
だがおそらく、何のことやらわからないと感じるはずだ。
少なくとも高校生だった当時の授業者はそう感じていたし、後に教壇に立ってこの文章を扱うようになっても、相変わらずよくわからない、と感じ続けていた。今も考えるたびに、こうかも、と思ったり、やはりよくわからない、と思い直したりし続けている。
2013年のセンター試験の大問1に小林秀雄の文章が出題され、国語の平均点が過去最低になった。あまりに「わからない」文章を出題したことで世間からの批判も多かった。
そもそも「完全な理解」などありえないのだし、「完全な無理解」もない(とりあえず日本語としては読める)。
そうはいっても実際に「わかる」とか「わからない」とかいう感覚はある。その手応えを素朴に言えば、やはりこの文章は、高校の教科書などで読む文章としては最も「わからない」と感じる部類の文章に違いない。
翻って、「わかる」とはどういうことか?
聞いてみると、自分なりに他人に説明できることだ、などという回答がほとんどのクラスで返ってきた。確かに文章が理解されている状態を証し立てる状態として「他人に説明できる」は一つの指標ではある。
だがその前に、内省的にしか捉えられない「わかる」という感覚自体は、脳内で何が起こっているということなのか?
この問いには授業で答を示したことがある。それを想起してほしくてこの問いを投げかけたのだった。
どのクラスでも、少数の勘の良い人がすぐにその言葉を口にする。
スキーマとゲシュタルトだ。
認識とは、入ってきた情報をスキーマにあてはめてゲシュタルトを構成することだ。「ダルメシアン犬」というスキーマにあてはめると、インクの染みにしか見えなかった図柄に、突如ダルメシアン犬が見えるようになる。顔スキーマにあてはめると、天井の木目や岩肌に顔が思い浮かびあがる。心霊写真とは、そのように「わかった」者に認識されたゲシュタルトだ。だから「わかる」とは、本人の内省的な感覚だ。
だから、「わかる」ことは必ずしも「正しい」ことを意味しない。充分であることも意味しない。
また、それは「わからない」状態に対する相対的な変化によって起こる感覚でしかない。「完全な理解」などない。
ともあれ我々は、とりあえずは「わかる」ためにテキストを読む。その際、認識構造・枠組み・型(=スキーマ)が豊富に用意されていることと、情報の整理によってその型にはめこむ技術の総合力が、いわゆる読解力だということになる。
小林秀雄の文章は総じてどれもわかりにくい。これはスキーマが、にわかには見当つかないことと、文章中の情報の整理が困難なことに因る。
まず文章内の論理が追えない。あちこちに飛躍があって、どうつながっているのか、どういう関係になっているのかが掴めない。
同時に、それを位置付けるべき枠組みが見当たらない。
それは当然かもしれない。小林秀雄に言わせれば、既に読者がわかっていることを言っても意味はないのだから、自分が言っていることは読者が初めて出会うような認識なのだ、ということかもしれない。
さらに言えば、自分がわかっていることすら書いてもしょうがないとまで言いたいかもしれない。書くことによって何事かを「わかる」ことこそ書くことの意味なのだ、と。途中で「何を書くつもりかわかっていない」という正直な吐露は斬新だ。
だから「わからない」のは当然なのだ。
だが上にも言ったとおり「完全な理解」がないように「完全な無理解」もない。わかるとかわからないというのは程度問題であり、それはそこにかける思考の時間によって変化する相対的な感覚だ。
可能な範囲で情報の整理を進め、同時にこの文章が位置付けられるべき枠組みが何なのかを探る。
この、情報の整理と枠組みへの位置付けは相補的に機能するもので、それはよく言っている「全体」と「部分」の理解が相補的であることと類比的・相似形だ。
文章内の情報の整理は毎度の「対比」などのテクニックを駆使して行う。
そして枠組みを充実させるのが、読み比べだ。
授業者にとって、長らく「わからない」と感じられていた「無常ということ」が、いささかなりと「わかった」と感じられたのは、授業で別の、ある文章を読んでいた時だ。不意に、ここで言っていることは小林が「無常ということ」で言っていることと同じだ、と思ったのだった。そのいわゆる「腑に落ちた」感覚は、鮮烈な体験として記憶されている。
この感覚がおとずれることを期待して、今年度のはじめに「無常ということ」を読む。
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