①子どもらしい疑問
②そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態
③ぼくは決して美学には行きつかない
それぞれに拮抗する二つの解釈とは次のようなものだ。
①「子どもらしい疑問」とは?
A 「純粋で無垢な疑問」という肯定的ニュアンス
B 「幼稚でとるに足りない下らない疑問」という否定的ニュアンス
①「子どもらしい疑問」ではまず「こんな」と指示されている部分がどこなのかも問題になるが、これはまあ前の4行全体を指していると考えればいい。
その上で筆者を「途方もない迷路」に「押しや」る「子どもらしい疑問」がA肯定的と考える根拠は「押されるままに別段反抗しない」からだ。
だがそうして押しやられる先は「迷路」だ。これが否定的な比喩であるとすれば、そこに自分を押しやる疑問も悪いものに違いない。とすればB否定的だ。
つまりAであることもBであることも、それなりに妥当性の根拠は挙がる。
となれば、後に続く論理をどう構築できるかが問題となる。
②「そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態」とは次のどちらを指しているか?
C 美しさをつかむに適したこちらの心身のある状態
D 「子どもらしい疑問」によって迷路に押しやられている状態
「そういう」という指示語は、直近の文脈を受けていると考えるのがごく自然な読解作法だから、まずはDの解釈が発想される。
Cの解釈は、もう少し文脈を広く把握しようとしたときに「状態」という語の共通性から発想される解釈の可能性だ。
ここでも既に両説の妥当性の根拠が挙がる。
となればどちらが「美学の萌芽」と呼ぶべき状態なのかを論理づける解釈が必要だということになる。
ある解説書では「美学の萌芽」を次のように説明している。
自分の美的経験に関する素朴な疑問と考察は、哲学的体系との整合性に配慮しつつ論理化された学問としての美学ではないが、美学とその出発点は同じくしているということ。
何を言っているかよくわからない。「素朴な疑問と考察は」とあるのは、Dと解釈しているということだろうか。
「ぼくは(迷路に)押されるままに、別段反抗はしない。」ことの理由として「美学の萌芽」に「疑わしい性質を見つけ出すことができない」と述べられているわけだが、Cに「見つけ出すことができない」のと、Dに「見つけ出すことができない」では、どちらが「反抗しない」ことの理由として納得できる論理を形成するか?
③「ぼくは決して美学には行きつかない」とは次のどちらのニュアンスに近いか?
E 美学に行きつくつもりはない
F 美学に(行きつきたいけれど)行きつけない
これら三カ所は、問うてみると、必ずみんなの中で見解が分かれる選択肢だ。その組み合わせを考えると、単純には2の3乗で8通りだ。教室の雰囲気が付和雷同に流れなければ、本当に皆の立場は8通りに分かれる。
そしてそれぞれが納得のできないわけではない、といった解釈を成立させる。
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