三項対立となる対比図を画いた。
これで文中の論理構造は一望できたが、だからといってこの文章の主旨が「わかる」というためには、もう一歩踏み込んだ考察が必要だ。
この文章のわかりにくさは、まず対比のラベルとした「感性/幻想/均質」がどのような対立要素を持っているかが、語義的にはまるでわからないことによる。
例えば「生きた他者」と「理念」、「見たものだけを見たということ」と「意味づけ」を並べて、その対立要素を考えようとしても、なんだか捉えどころがない。だからこそ、そもそも文中から抽出することが難しかったのだ。
対比する項目同士は、必ず対比を可能にしている共通の土俵と、対比軸を構成する対立要素(「差異」といってもいい)をもっている。
例えば「感性」の「実質的」「リアリティ・切実感」と「均質」の「擬似的」「抽象的」と並べれば、「感性」と「均質」の対立要素は明らかに感じ取れる。これは語義的な対立がわかりやすい。
また「幻想的」は、「感性的」の属性である「実質的」の対比で、「実質的ではない・実体がない」などということだと捉えればいいように思える。
では「実質的/擬似的」と「実質的/幻想的」という対比はどのように違うか?
「幻想的」と「擬似的」という言葉のもつ対立要素はわからない。
この文章での最終的な議論は「感性的/均質な」の対立軸を巡って展開されるので「幻想的」にそれほど踏み込む必要はないのだが、実は高校生にとって最も厄介なのは「幻想的」の概念の理解のはずだ。
「幻想的」とはどういうことか?
「幻想」という言葉はわかる。耳慣れない言葉ではなく、難解でもない。
だがさらに、「均質」の「擬似的」とも対立要素をもつ領域として「幻想的」を捉えるには、単に「幻想」という語義からの解釈では不十分なのだ。
実はここにはある「常識」の決定的な欠落がある。そればいわば時代的なものだ。この文章が書かれた時には、読者にとって常識であり、それがいまや「知る人ぞ知る」になってしまったのだ。
それが「幻想的」という言葉の意味を高校生が捉え損ねる重要な原因だ。
「場所と経験」が雑誌に掲載された昭和47(1972)年の読者にとって「幻想」という言葉は、「共同の幻覚」の柳田国男などよりよほど自明なものとして、「共同幻想」という言葉を想起させたはずだ。それは完全に当時の言論界にとっての「常識」だった。
「共同幻想」は1968年に刊行された吉本隆明の『共同幻想論』の流行に伴って人口に膾炙した言葉だった。当時の言論人も大学生も、当たり前のように「それって『共同幻想』だからさあ」などと言っていたのだ(たぶん。80年代に青春を送った授業者には実体験ではないが、当時の文章にはまだ頻出していた)。
つまり「幻想的」という概念の理解にとって重要なのは、「幻想」という語の含意する「実際には存在しない」などという意味合いとともに、それが共同体の成員に共有されたものである、という点だ。「幻想的」とは、実体はないが皆が信じている、という意味なのだ。
とすると「幻想的/感性的」の対比を成立させる対立要素は何か?
「幻想的」が「共同体の成員に共有されたものだ」という意味だとすると、対比軸を挟んで、「感性的」にどういう意味を見出すべきか?
勘の良い人はすぐにピンとくる。「個人的な」という意味だ。
ではそうした対立要素に、「均質な」の対比項目から何を置くべきか?
「幻想」の「共同体・国家」という例から連想されるのは「国際的」だ。
だがこの「国際的」も、何やら含みのある言葉らしいという感触を察知すべきだ。
それに続く文脈から判断するとこの「国際的」は否定的なニュアンスを担っているらしいのだ。
結局、「幻想的/感性的/均質な」という対比は
という対立要素としてだけでなく、
とでも表現すべき対立としても捉える必要があるということになる。
捉えにくい(しかも捉え損ねていることが意識されにくい)「幻想的」という語の意味合いを考察することで、三項がどのような対立要素を含んだ対比なのかが明らかになってきた。
この「幻想的」という概念は先述の通り「場所と経験」の主旨からすると比較的重要ではないのだが、「社会と個人」をテーマとする文章などと読み比べるときなどにはきわめて重要な概念だ。
例えばもしかしたら公共の授業でも紹介される「想像の共同体」などという概念にも通ずるものとして、「幻想的」の意味合いも捉えておきたい。
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