語り手のいる場所についての考察は、詩の中を流れる時間についての把握や、フィクションにおける「事実」の認定の問題、賢治の世界認識のありかたにまでいたる、案外に広い射程をもった考察だった。
全体を捉えること。細部を見つめること。詩を読むためのアプローチはさまざまな角度から企図されていい。
とはいえ、言わばこの詩の「定番」といえるいくつかの問題点については、すべてに触れるわけではない。
たとえば「みかげせきざい」は唐突だなあと違和感があるが、とりたててそこに意味を見出すことはできていない。「まがったてっぽうだま」もあれこれ考察はできるが、それほど面白い認識の更新が起きていない。
あるいは「永訣の朝」を授業で扱う際に言及されることの多い「二」という数字の意味についても、とりたてて関心がない。確かに「二」はどうみても意味ありげに繰り返される。だが、なぜ陶椀を「ふたつ」持つのかも、賢治が妹と自分をセットにして考えているからだろうという素朴な解釈以上のものはない。何か、認識が更新されるような感慨がおこらない。だから、なぜ賢治は陶椀を「ふたつ」持って出たのか? などと授業で聞く気にはなれない(C組の授業後にNさんから寄せられた、前半で「雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだ」と言っているのに、後半では「おまえがたべるこのふたわんのゆき」となっているのはどういうことだ? という疑問は尤もだと思うが、あまり関心はない。後述する解釈に含まれるものとしてスルーしたい)。
最後に扱うのは、この詩の主想に至る考察を導く問いだ。
22行目の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」はどこに係るか?
句読点のない詩を読むとき、我々は、倒置されている可能性も含めて係り受けを判断しながら文構造を把握している。どこかの詩行は文の途中であり、どこかの行は文末だ。
「から」は終助詞ではないから、「いくから」という行末はどこかに係るものと、まずは思う。
だが23行目は「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインでつながらない。24.25行目「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ」でも意味がわからない。その後にも22行目を受ける詩行はない。
倒置の可能性も考えて、前を遡って探しても見つからない。
つまりこの「から」はどこにも続かない。係っていない。といって「から」は終助詞ではないから通常の「文末」とは思えない。
では何だ?
つまり文末が省略されているのだ。
では「~から」の後には何が省略されているのか? 「から」の後に何と補うか?
難しくはない。無意識にそこを補っているからこそ「から」が宙に浮いてしまっていることにも、とりわけ違和感を覚えずにいるのだ。
「安心して逝きなさい」「心配しないでおやすみ」「安らかに成仏してくれ」等々…。
さて、ここからが問題。
「から」は理由を表す接続助詞だ。「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことが「安らかに成仏してくれ」と言いうる理由になっているのだ。
では「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?
とはいえこんなことは疑問として意識されたりはしない。「まっすぐ」も「すすむ」も肯定的な意味合いを持った言葉だ。だから「まつすぐにすすんでいく」というのはそれだけで何やら良いことのように思われる。それで妹が安心することに不審を覚えたりはしない。
では「まつすぐにすすんでいく」とは具体的に何を意味しているのか?
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