2023年12月8日金曜日

こころ 47 ー履物についての言及

  テストで、「こころ」の教科書の収録部分以外の部分について出題した。その最後に一問、記述問題を置いた。全体の問題数が多すぎてそこまで時間がとれず、心残りの人も多かったに違いない。申し訳ない。

やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた学校の課業に出席しなければならない事になりました。Kと私とは各自の時間の都合で出入りの刻限にまた遅速ができてきました。私がKより後れて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの影をKの室に認める事はないようになりました。たしか十月の中頃と思います。私は寝坊をした結果、日本服のまま急いで学校へ出た事があります。履物も編上などを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子をがらりと開けたのです。するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように手数のかかる靴を穿いていないから、すぐ玄関に上がって仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐っているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。私はあたかもKの室から逃れ出るように去るその後姿をちらりと認めただけでした。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さんは始めてお帰りといって私に挨拶をしました。私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような捌けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。

 下線部、履物についての言及がなぜあるのか、という問いだ。

 学年全クラス中、唯一5点満点の評価をしたのはA組のMMさん。あの時間の中で問題を的確に捉え、十分な記述ができたのは本当にすばらしい。

 以下にいくつかの回答についてコメントする。


 「私が急いでいた(焦っていた)ことを表わす」はそのとおりで間違ってはいないが、それがどのような意味をもっているというのか?

 「急いでいたので、Kが休んでいることを確認していないことを示す」は、後の「Kよりも私の方が先へ帰るはず」「いないと思っていたKの声が」などと関連づけてある分、「意味」があると感じられるが、そもそも「私」は「Kが休んでいることを確認していない」のだろうか?

 家を出る時刻はそれぞればらばらだったとあるから、「私」はKがいることを知っていて、単に自分よりも後から家を出るのだと思っていただけのはずだ。「休んでいることを確認」することは、後から、帰ってからしかわかりようがなく、急いでいるかどうかに関係なく不可能なのだ。


 履物についての言及が、朝の時点での「私」の何らかの心理を表わすと解釈することももちろんできるが、ここではそれよりも後の展開の必然性を高めるために記述されていると考える方がより大きな「意味」を持つ。

 まず、草履だったことは、玄関から上がる時間が短かったことに理由を与える。

 早く玄関からから上がると何なのか?


 玄関から上がると、自分の部屋に向かうために、まずKの部屋を通らねばならない。そこでは「私はあたかもKの室から逃れ出るように去る(お嬢さんの)その後姿をちらりと認めただけ」という展開が待ち受けている。

 「玄関から部屋に上がるまでに時間がかからなかったから、お嬢さんの姿を見ることができた」ことだけでも指摘できていれば部分点。

 だがそれ以上に、ここで「私」の裡に起こる心理を分析する。

 どう考えたらいいか?


 お嬢さんがKの部屋を出たのは、単にお茶の用意をしに台所に行っただけかもしれない。

 おそらく実際そうなのだ。

 だが「私」はそれを「逃げた」と捉えてしまう。

 それはお嬢さんを見たタイミングが微妙だったからだ。

 玄関で時間がかかって、なおかつお嬢さんがそのままKの部屋にいたとすれば、いたことを隠そうという意図がないのだと感じられる。

 だがお嬢さんは部屋を出た。そしてそれは「私」と入れ替わるような微妙なタイミングだった。

 ということは、もしも履物を脱ぐのに時間がかかっていたならば、お嬢さんは完全にKの部屋を出てしまっていただろう。そうだったら「私」はお嬢さんがKの部屋にいたこと自体を知らずにいたことになる。

 この可能性がかえって、お嬢さんはKの部屋にいたことを「私」に隠そうとしたのではないか、という疑惑を「私」に芽生えさせてしまう。隠そうとするということは、すなわち…と。

 だからこそ「私」は疑心暗鬼にとらわれ、お嬢さんが部屋を出ることを「逃げる」と捉えてしまう。


 履物への言及は、上記のように考えた時により大きな「意味」をもつ。

 「草履」に何か象徴的な意味を読み取ろうとする回答もあったが、総じて、そう考えたときに「思い当たる」感覚がなく、無理矢理考えた感じがする。

 それに比べて、上記の分析は「思い当たる」感じがするはずだ。読者は既にそのことを自然に感じ取っている。

 ただその「感じ」を分析的に語るのは難しい。


 朝、履いたのが草履だったのは偶然であり、その偶然は明らかに作者の意図的な仕掛けだ。

 このような解釈をするためには、「登場人物の心理」だけでなく、「作者の意図」といった視点が必要だ。

 一連の「こころ」読解においては、しばしばこうした視点を用いて、テキストの示す「意味」を捉えてきた。

 その応用問題である。

 唯一満点だったMMさんの答案

素早く脱ぐことができる草履をはいていることで、帰宅してお嬢さんとKの声が聞こえたときにすぐに履物を脱いでそちらへ向かうことができ、お嬢さんの後ろ姿に疑念を深めるため。

 用意しておいた模範解答。

帰った時に、玄関から部屋へ上がるまでの時間がかからなかったために、部屋を出ようとしたお嬢さんを微妙なタイミングで見ることになり、かえって、お嬢さんは自分に見つからないようにKの部屋を出ようとしたのではないかという疑念を「私」に抱かせる必然性を生むため。

 こうして見比べても、MMさんの答案が驚くほどよく書けていることがわかる。

 

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