仮説5
問① 遺書が、この晩に書かれていたことを示す。
この解釈について真面目に検討しよう。
こう考えることの妥当性についての重要な論点は、物語に直接描かれていない「事実」をどこまで認めるか、という問題だ。
ここでは、「私」が目を覚ますまで、つまりKが襖を開けて「私」に声をかけるまでの間、Kは何をしていたのか、という想像は必要なのか、という問題だ。
語り手の「私」から見ればKが襖を開けてこちらに声をかけるまでの時間は存在しない。これは「私」だけでなく読者にとってもそうなのだ。そうした時間のことをどこまで想定する必要があるか。
一般に、物語にとってのあらゆる展開の可能性の中で、直接描かれていない場面・時間は、とりあえずまだ存在はしていない。エピソードとエピソードの間、場面と場面の間は跳んでいる。そしてそれについて想像しなければならない必要が常にあるわけではない。登場人物は、観客の前に登場する直前にスイッチを入れられて舞台に登場するロボットのようなものに過ぎない、とも言える。
だが物語によっては、書かれていない時間・場所で起きた出来事について想像することが読者に要請される場合もある。
ミステリーなどは語られている場面の裏で何が起こっていたかという想像こそが物語享受の作法の核心だ(コナン君が語る黒タイツ人間の行動のように)。
そうしたジャンル的特性に限らず、書かれていない時間について読者に想像を促す必然性をもった物語は、それだけ豊かなものになりうるはずだ(もっとも、ミステリーでは結局物語内で語られてしまうのだが)。
このエピソードにおいて、この想像は要請されているのだろうか。Kの「その時間」は物語にとって存在したのだろうか?
そうした想像の要請を受け入れるためには何が必要か?
何をもってそれを小説世界にとっての「事実」と見なすか?
書いていないことを解釈によって作品内の「事実」と見なすためには、その解釈につながる情報を作者が意図的に文中に書き込んで読者に提示していると見なせなければならない。
そのために敢えて書いたと見なせる符牒=サインが見つかることが、そうした解釈の正統性を根拠づける。
文中に明示された事実と矛盾しない解釈というだけなら、解釈の幅はかなり広く確保される(「K=宇宙人」説)。
だが小説は現実ではないのだから、読者が解釈すべき物語世界の限界については、作者が文中に何らかのサインを書き込んでいることによって保証されると考えるべきなのだ。そうでなければ通常は常識の範囲内で、ということになる。
先に、書いてあることにはすべて整合的な解釈ができるはずだと述べたが、同時に、書くべきことが書いていなければ、それはないものと見なす、とも述べた。これは解釈の妥当性を判断する上での、裏表の条件だ。
ここでも「遺書は上野公園の散歩の晩に書かれたものだ」という、文中で明示されていない「真相」を読者に伝えるべく漱石が残したサインが見つからないことには、こうした解釈を採らなければならない必然性はない。それはトンデモ解釈にすぎない。
Kが遺書を書いていたという、小説に書かれていない時間を読者に想像させるべく作者が書き込んだサインは見つかるのか?
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