テスト前までの授業で「問いを立てる」練習したことがある。問いを立てることは思考を集中させるためにきわめて有効だ。
「この文章は何を言っているか?」という問いは、常に有益な問いだ。授業でそういう時間をとらなくても、常に自分で考えなければならない。
小説の場合、これを「この小説の主題は何か?」などという言い方で表わすのだが、つまりは「何を言っているか」だ。
「羅生門」が何を言っている小説かは、一読してただちにわかるものではない。わからないから授業で扱うのだ、とも言える。
だが、このレベルの抽象度の問いに、最初から立ち向かうのは得策ではない。
まずはもっと具体的なレベルの問いから始めよう。
といって瑣末な問いではない。「羅生門」を読み解くために最優先されるべき、最重要の問いだ。
「羅生門」を一読した今、最も大きな謎は何だと感じられているか?
「羅生門」がひとまず「わかった」と思うためには、何がわかればいいのか?
課題の回答を見ると、問いの趣旨がつかめず、徒らに捻ったり細部に拘ったりする問いを考えてしまう者もいた。
「下人はどこに行ったか?」を挙げた者は各クラスにいるが、これは最優先に答えを得るべき問題ではない。答えがありそうだという見込みもない。
「悪は許されるか?」のように抽象的な問いでは考えるべき焦点が曖昧になる。これは「主題」に踏み込みすぎていて、考えるべき行程が多過ぎる。また「Yes-No」で答えられる問いはあまり有益ではない。どちらかの結論が重要なのではなく、その結論を導く論理が重要だからだ。
最大にして最優先の問いは明白だ。
すなわち「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」である。
物語の終わりに、下人は老婆に対して引剥ぎをはたらく。この行為の意味こそが、「羅生門」という小説の「最も大きな謎」である。
半分くらいの者はこの点を問いとして立てていた。
ただし表現はいくつものバリエーションがあった。多かったのは「なぜ心が変わったのか?」だ。「変わった」とは何を指すのかを具体的に明確にしよう。
あるいは「なぜ悪を選んだのか?」「なぜ盗人になることを選んだのか?」などという表現をした者は多かったが、「引剥ぎをする」と「盗人になる」は厳密に同一ではない。引剥ぎをした下人ははたして「盗人になった」のか?
「盗人になる」には既に解釈が含まれている。下人が最後に行った引剥ぎが「盗人になる」ことを意味すると見なすことには留保がいる。
さしあたっての共通認識として、小説内事実としての引剥ぎという「行為」の意味を問いとして立てておこう。それを支える下人の「心理」はこの問いに答える過程で考察しよう。
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