「羅生門」とはどんなことを言っている小説なのか、一般的な理解を辿ってきた。
ここまでの流れの中で「老婆の論理」についてさらに突っ込んで考察すると、面白いことが明らかになる。
下人が引剥ぎをする直前の老婆の長台詞には二つの理屈が混ざって語られている。
これを「極限状況」と同じく、二つに分けてみよう。
1.相手が悪人ならば悪が許される。
2.生きるためならば悪が許される。
このうち、どちらがより強く下人を動かしているか?
「行為の必然性」を支えるのはどちらか?
一般的な解釈によれば2こそ「行為の必然性」を支えていることになる。生命の危機に直面しているという「極限状況」を正しく受けているのは2だ。やらなければ死んでしまうという状況で、やってもいいのだというお墨付きをもらったからやったのだという理屈は理に落ちすぎるほどだ。
だが1を支持する者は意外に多かった。というかむしろ1の方が優勢だった。
1を支持する根拠としてどのクラスでも挙げられたのは次の一節。
その時の、この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。
これがなぜ1を支持することになるのか?
「飢え死に」と選択になっているのは「盗人になる」であり、「飢え死にを考えない」は「盗人になることしか考えない」ということだ。
これは別にどちらかの根拠になるわけではない。「盗人になる=生きる」だから、むしろ2を支持しているようにさえ思われる。
それなのになぜ1支持者がこれを挙げるのか?
B組S君の解説によると、「飢え死に」が「意識の外」だというのは、生死が問題ではない、つまり「生きるため」ではないということなのだ。だから2ではなく1が問題だということなのだ。
なるほど。だがそうか?
さらに、引剥ぎをするにあたって下人が口にする台詞も検討された。
「では、俺が引剥ぎをしようと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」
言葉通りとればこれは「生きるためにするのだ」と言っているのだから、2を支持する根拠ということになる。実際にこれを挙げたのは2支持者だった。
だが「俺も」とは、自分と老婆が同じ立場であることを殊更に強調している。そしてそれによって、自分の行為を相手が「恨まない」ことが念押しされている。
つまり下人は、自分の行為の差し迫った必要(生きるため)よりも、自分の行為が相手の言った論理に則っているということを示して、相手が自分の行為を了承するしかないことを言い立てているのである。
1が支持されるのは、この台詞の印象に基づいているのではないか?
こうした検討から明らかになることは、本当の問題は、下人が1と2のどちらに動かされているか、という対立ではないということだ。
問題は下人の引剥ぎを、次のどちらの意味合いで捉えるかなのだ。
A.老婆の「自己正当化の論理」を老婆自身に投げ返す。
B.老婆の「悪の容認の論理」を受け入れて引剥ぎを実行する。
Bならば引剥ぎはすなわち「今後生きるために盗人になる」ことを意味するが、Aでは、この時の老婆に対してのみ行われる行為だということになる。
最初1を支持している者は、実は1と2のどちらかというより両方を含めた「老婆の論理」に含まれる「自己正当化の論理」に対する怒りや不快が下人を動かしていると感じているのだ。授業では「老婆を懲らしめる・老婆を罰する」などの表現が使われた。
一方Bもまた1と2の両方を含むものであり、2と一致しているわけではないが、「容認」されるべき正当性はおもに2に負っていると考えるから、2支持だということは下人の行為をBだと感じているということなのだろう。
ABではそれぞれの表現する「エゴイズム」も様相を異にする。
Bならば、「エゴイズム」とは、老婆と下人が等しく持っている「生きるためのエゴイズム」であり、物語はその容認(あるいは必然)を表現していることになる。これは従来の「羅生門」理解だ。
だがAならば、例えば「エゴイズム」とは、老婆の語る自己正当化のエゴイズムであり、物語は老婆への処罰という形でそうしたエゴイズムを痛烈に批判していることになる、などと言える。ただしこれは一般的な「羅生門」の主題とは一致していない。それをどう表現したらいいか。A支持者は考えなければならない。
さてAを支持する根拠をさらに挙げよう(もともと1支持の根拠として挙げられたものだ)。
『今昔物語』の原話の盗人が老婆の抜いた死人の髪や死人の着物も一緒に持ち去るのに対して、「羅生門」の下人は老婆の着物だけを剥ぎ取る。つまり盗人の行為が生活のための実用的な行為であるのに対して、下人の行為は老婆にのみ向けられている。「生きるため」ではなく「老婆を罰する」なのである。
また上記の台詞を言う際に「かみつくようにこう言った」という形容がある。「生きるために」引剥ぎをするのなら、老婆に対する感情を表わす「かみつくように」という形容がなぜ必要なのかわからない。下人は老婆に対する敵愾心で動いている(H組K君の指摘)。
さらに重要な論拠なので必ず指摘したいのは、下人が老婆の言葉を聞いた後「きっと、そうか」と念を押す声に「嘲るような」という形容が付せられていることだ。これがどうしてAを支持する根拠になるのかを説明することには、意外とみんな苦労した。
これは自己正当化の論理がそのまま自分に返ってくることに気付かない老婆を嘲っているのだ、と考えられる。お前、そういうこと言うなら自分がされてもいいよな?
これらの形容は、作者が意図して付加しているのであり、その意味は必ず解釈されなければならない。そしてそれはAを支持しているように思われる。
Aを支持するには、積極的にAを支持する根拠を挙げるだけでなく、Bを否定する論拠を挙げてもいい。ここで挙がった根拠については後述する。
一方、Bを支持することは、「極限状況」と「老婆の論理」を結ぶ論理の線上に素直に乗ることであって、それ以上に積極的な根拠を言う必要がない。
そしてBを否定する論拠は後に述べる。
この議論は盛り上がった。両陣営に分かれて論戦をする中で、積極的に発言をする人が現れるのは楽しかった。
そして、それぞれを支持する論拠、それぞれを否定する論拠が提出される中で、問題が1と2の対立なのではなく、AとBの対立なのだということがわかってきた。
こうしたAとBとの対立を最初から設定することはできない。1と2の対立をめぐる議論の中で初めてそうした相違が浮上してきたのだ。これに気づかされたのは、授業者にとって今年度の大いなる収穫だった。
0 件のコメント:
コメントを投稿