2022年6月9日木曜日

羅生門 1 小説を読む

 これから数時間「羅生門」を読む。


 昨年の秋頃、令和四年度から始まる高等学校「新課程」の教科書のニュースとして、一つの国語教科書が話題に上っていたことがある。(例えば→

 「新課程」では高校1年生の国語が「現代の国語」と「言語文化」に再編された。この中で小説や詩の扱いは「言語文化」に含むというのが文科省の打ち出した方針だった。

 だがある出版社の教科書だけが「現代の国語」に小説を収録し、それが文科省の検定を通り、しかもそれが採択率トップだった。つまり現場の先生方は小説を「現代の国語」で扱いたいと思っているのだ。文科省の方針通りに「言語文化」に小説を収録した他の出版社は怒り、検定を通した文科省を批判した。だが文科省は一度通した検定結果を覆すことはせず、現場には「適切に扱うように」と通達した。


 実際のところ、問題は「羅生門」だ。誰が授業で「羅生門」をやるか。

 一人の教員が同じクラスの「現代の国語」「言語文化」を担当するのなら問題はない(それでも、その評価をどちらの科目に含めるかという問題はある)。だが担当者が分かれている場合、古典を扱う担当者が小説を扱うことになる。建前上は。

 高校の国語では古典の勉強の方が時間がかかる傾向にあるから、小説を扱いたくないと考える教師もいる。あるいは古典で教えるべきことは決まっていてやりやすいが現代文は何をやったらいいかわからないから避けたいと言う国語教師もいる。

 一方で「羅生門」は定番教材だからやり方が決まっていて、誰もがやりたがるとも言える。どの出版社の教科書にも収録されているのはそういうことだ。

 「羅生門」は教員の思惑の微妙なバランスの上にある。


 「羅生門」を読むことは「現代の国語」の目的に適っているか、「言語文化」の目的に適っているか。

 実は学習指導要領の「現代の国語」と「言語文化」の目標は、それほど違ったものではない。それにどちらも必修科目だ。結局は有益な国語の力を養うことが国語という教科の目的なのだ。小説をどちらで扱うかはまったく本質的な問題ではない。

 問題なのは「羅生門」という小説を、ある種の「文学趣味」のような姿勢で「教える」ということだ。
 評価の定まった有名な文学作品を、一般的にすっかり定まった評価と解釈のまま「教える/教わる」ことは、いくらか「文化の継承」に資するかもしれないが、高校生の国語力を高めることにはならない。
 このブログでも最初から言っている。「羅生門」を、こういう作品だと「教える」ことはこの授業の目的ではない。

 ただ、「羅生門」というテクストを素材として、思考し、議論し、表現することが、これからの授業の手段であり、同時に目的だ。


 「羅生門」は特異な作品だ。

 発表されてから100年以上経った今、間違いなく、最も多くの日本人が読んだことのある小説だと言っていい。

 それは人気作だということではない。「鬼滅の刃」が、「進撃の巨人」が、「ドラゴンボール」「名探偵コナン」がいかに多くの読者を得ているとしても、読んだことのない日本人も多い。

 だが「羅生門」を読んだことのある日本人は、16歳から70台くらいまでの日本人の8割くらいにはなるはずだ。みんなのお父さんお母さんも、日本の高校を出ていれば間違いなく読んでいる。こんな小説は他にはない。

 それは「羅生門」が全ての出版社の国語教科書に収録されているからだ。そして高校の進学率が長らく9割の後半を推移している以上、それら日本の高校生を経験した大人のほとんどが「羅生門」を読んでいることになる(どれほど真面目に読んだかはともかく)。

 いわば「羅生門」は日本人の基礎教養、共通常識なのだ。


 みんなも今回晴れてその大多数の日本人の仲間入りをしたことになる。

 だが授業で見えてくる「羅生門」は、それら大多数の日本人の知っている「羅生門」とは違うものになる予定だ。

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