2022年6月10日金曜日

羅生門 3 行為の必然性

 下人が最後に実行する「引剥ぎ」は、確かによくわからない。なぜ彼はそうすることにしたのか?

 だがこの問いは自覚的な思考によって選ばれているわけではなく、一読した読者には自然に思い浮かんでいる、といった体の疑問でもある。

 ではそれが「羅生門」を読むための中心となる「問い」だと、なぜ感じられるのか?


 これは難しい問いだ。そここそが最も「わからない」と感じられるから、というのが素朴な答えではあるが、それではなぜ重要かが明らかにされているわけではない。その「わからなさ」がどこから生じているかを分析し、他の様々な「わからなさ」の中で、この点が最も重要である理由を分析する。

 「わからない」というだけならば、なぜ平安時代が舞台なのかとか、なぜ突然フランス語が文中に登場するのかとか、なぜ「にきび」がこれほど強調されるかとか、下人はどこへ行ったのかとか、「わからない」ことはさまざまある。中でも下人の心に燃え上がる「憎悪」などは(そして「得意と満足」や「失望」なども)、読者にとっては「わからない」はずだ。

 その中でもこの引剥ぎという行為こそ最も重要な謎であると感じられるのはなぜか?


 もちろん、どんな小説でも常に登場人物の特定の行為の必然性が物語の「主題」を支えるというわけではない。物語中にはとりたてて必然性に疑問のない大小様々な「行為」が描かれている。「羅生門」の物語中、下人は大小様々な行為の主となる。冒頭で雨止みを待ち、その後石段に腰掛け、羅生門の二階に上がり、老婆を取り押さえ、「にきび」に手をやり…。その中には特別に理由を問う必要のないほど当然の行為も、理由の明示されている行為もある。その中で、「引剥ぎ」は特権的に重要な位置にある。

 それは、引剥ぎという行為が、読者にとって自然に受け入れることのできない大きな違和感とともに提示されているから、ではある。素直に「わからない」のだ。

 最後にそこに踏み出すときに、明確な理由が書いていない。そしてその実行には、ある飛躍が感じられる。この行為は何を意味しているのか、そこに必然性を見出さないまま読み終えることができない謎が読者に提示されている。


 引剥ぎが重要だと見なせる理由はその飛躍の大きさ(わからなさ)とともに、単に物語の終わり近くの行為だから、でもある。途中の行為は最後の行為につながる中でその意味が決まってくる。となれば重要なのは最後の行為だ。

 だがそれだけではない。最後近くの行為の中でも、この「引剥ぎ」がとりわけ重要だと見なせる理由が明確にある。

 何か?

 「引剥ぎ」こそが問題の焦点だと感じられるのは、この行為が冒頭近くの問題提起に対応しているからである。

 引剥ぎは成り行きの中で唐突に行われるわけではない。冒頭でこの行為に対する迷いが提示され、最後にそれが実行されて終わる。この物語の構造は、その対応を作者が読者に対して積極的に提示しているように見える。

 つまり「羅生門」という小説の意味は、この問題提起と結論をつなぐ論理の中で把握されそうだと感じられるのである。読者は下人が引剥ぎをすることの論理的必然性を理解しなければならない。


 「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」という問題は、つまり「引剥ぎ」という「行為」の「必然性」をどう納得するか、という問題である。

 これは「下人がなぜ引剥ぎをしたか」という問いであるとともに「作者がなぜ下人に引剥ぎをさせたか」という問題でもある。下人がそうすることが必然であるように、作者がこの小説を書いているのだ。

 それがどのような意図による、どのような論理によるものなのかを明らかにすることが「羅生門」を読解するということだ。

 ひとまずは。


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