では「老婆の論理」はどうか。
先程の考察から、問題は、下人の引剥ぎを「A.自己正当化の論理」を老婆自身に投げ返す行為として捉えるか、「B.悪の容認の論理」を受けて盗人になる決意と考えるかという対立だということが明らかになった。そして従来の理解に拠れば下人の行為をBに従って理解しなければならないはずだが、実際に訊いてみるとAを支持する者の方が多い。
このことをどう考えるか?
端的に言えば、Bのように考えることはそれほど説得力はないということを示しているのだ。
だからといってAを認めるべきでもない。
先の議論において2を支持する立場から1に対する反論として挙がった論は、Aに対する反論としても有効だ。
確かにAのように「自己正当化」の理屈を言う老婆に、そっくりそれを投げ返したのだ、という皮肉の切れ味は、小説の味わいとしても悪くない。これは「極限状況」は実は描かれていないという前項の見方にも整合する。
だがそれでは物語の主人公が老婆ということになってしまう。利己的な自己正当化の論理、詭弁によって逆に自らが罰を受けるアイロニカルな因果応報譚として「羅生門」を捉えることになるからだ。
そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。
これでは結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。引剥ぎをするにあたって生まれてきた「勇気」とは「さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である」と明確に書かれている。これはこの行為が冒頭の迷いに対する決着であることを示している。
単に老婆を懲らしめたのだという解釈は、引剥ぎに踏み出す最後の場面だけに注意していて、小説全体を捉えてはいない。
ではやはり従来の解釈どおりBだと考えるべきか。
だがこの論理は、上に述べたように「極限状況」が肉体的な感触として描かれていないことから既に破綻している。
それだけではない。先の検討において、1を支持する立場から2を否定する根拠として挙げられていた根拠は、そのままBを否定する根拠となる。
盗人にならなければ飢え死にをしてしまう、という状況は最初から変わっていない。それがわかっているにもかかわらず踏み出せなかったのだ。
だから今更老婆が2の論理(「生きるためならしかたがない」)を語ったからといって、そのことによって下人の心が動く道理がない。とすればそれを動かしたのは、ここで新たに提示された1(「悪人相手ならしかたがない」)の論理しかないということになる、というのが1支持者の主張だった。
具体的には、物語冒頭の下人はどのような認識をもっていたか。
この「(飢え死にしないために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
下人は物語の最初から「(生きるために悪を肯定する)よりほかにしかたがない」ことがわかっている。わかっていてできなかったのだ。老婆が何かしら下人の知らなかった認識や論理を語っているわけではない。したがって下人は2に動かされているわけではない。
この主張は実に論理的である。ただし、だから1だという結論にはならない。2ではなく、やはり1でもないのである。つまりBは「行為の必然性」を支えられない。
それでもBを延命させるならば、次のような解釈が可能かもしれない。
人は、自分でわかっているのに実行できなかったことでも、他人の言葉で聞くと動けるようになるということもある。他人の言葉を免罪符として、実行しにくい行為に踏み切るのだ。「羅生門」はそういう人間心理を描いているのだ(F組Kさんなどの解釈)。
この解釈は、「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」などという大仰な主題設定よりはよほど気が利いている。芥川ならそういうのを書きそうだという感じもする。
だがこれも簡単には納得できない。仮にそのような心理を主題とする小説であるならば、最後の引剥ぎの直前に、老婆の語ることは既に自分もわかっていたことだという認識を下人に語らせるか、気づかない下人に代わって「作者」が解説してしまうはずである。そうでなければこうした心理が「行為の必然性」を支えているという、小説の主題の在処が読者には伝わらない。
いずれにせよ「老婆の論理」は「行為の必然性」を支える説得力はない。やらなければ「しかたがない」とわかっているのにできずにいたことがなぜできたかというと、やることは「しかたがない」とわかったからだ、というのはパラドクス(自家撞着)である。あるいは無内容なトートロジー(同語反復)である。
にもかかわらず「老婆の論理」が「行為の必然性」を導いているという理路がまるで疑われないことには理由がある。それは何か?
理由は明白である。老婆の長台詞の後の次の一文である。
これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
「ある勇気」とは「盗人になる」勇気である。この「勇気」が引剥ぎという形で実行される。老婆の話が下人の中に「盗人になる」勇気を生じさせているのだ。そして、勇気が生まれさえすればそれを実行するだけの動機は「極限状況」によって保証されている。論理は明白だ。
だが老婆の言葉がどのように下人を動かしたのか、上に見たとおり、実はよくわからない。にもかかわらず「老婆の論理」が「行為の必然性」を支えているはずだという前提から、こうした理屈が生み出されている。
これは論理が転倒している。老婆の言葉が、なるほど下人に引剥ぎをさせる論理を備えていると感じられるからそこに「行為の必然性」の根拠を見出しているのではなく、そこに根拠があるはずだと考えるから、その論理を捻り出しているのである。
確かに、下人が引剥ぎをしたのは老婆の長広舌を聴いたからだと考えることには疑いの余地がないように見える。世の中の全ての「羅生門」論は「老婆の論理」が「行為の必然性」を支えているとして疑わない。
この論理を否定することは難しい。実際に別の論理を提示することでしか、この因果関係を否定することはできない。
この時点で考えられる抜け道の可能性を示しておく。
次の二つの表現はどう違うか?
1.これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
2.これを聞いて、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
並べてみればすぐにその違いを感じ取れるはずだ。
だがそれを適切に説明することが容易なわけではない。
聞いてみると、1は「聞いている」途中に「勇気が生まれてきた」が、2は「聞いた」後だ、という説明が多かった。間違っていないがポイントを捉えてはいない。
次のように二つの違いを表現できた人はすばらしい(即座に反応したB組Mさんなど)。
2「これを聞いて」は、老婆の言葉を聞くことと「勇気が生まれてきた」の間に因果関係があることを示している。
だが原文の「これを聞いているうちに」は、言葉通りに解釈すれば、「勇気が生まれて」くる間の時間経過を示しているだけなのだ。因果関係はあってもいいが、ないと考えてもいい(これを、原文では老婆の言葉がBGMのようなものであってさえ構わないということになる、と表現した生徒が去年いた)。
一般的な「エゴイズム」論は、「これを聞いているうちに」を無自覚に「これを聞いて」と言い換えているのである。一度そうなると、「老婆の論理」と「行為の必然性」の間にある因果関係は決して疑われない。
だが上記に見たとおり実はそうした因果関係に、それほどの論理的強度はない。
この小説は「極限状況」を身体性において読者に感じさせようとはしていないし、「老婆の論理」は新たに「勇気が生まれてきた」という変化を下人に起こすほどの論理的必然性をもたない。
といって授業者は、正直に言えば、そうした論理の脆弱さによって、「なぜ引剥ぎをしたか」がわからないと考えていたわけではない。「極限状況」も了承していたし、老婆の言葉によって「勇気が生まれてきた」のだろうとぼんやり思いつつ、それではこの小説の主題が何なのかがわからない、と感じていたのだ。
「下人はなぜ引剥ぎをしたのか」がわからないというより、そのように説明される「行為の必然性」から導かれる「主題」=「エゴイズム」が面白いとは思えないのだ。
「羅生門」が人間のエゴイズムを描いているなどという捉え方は、この小説をぼんやり読んでいるに過ぎない。
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