2022年6月28日火曜日

羅生門 10 未解決の問題

 「極限状況」と「老婆の論理」は「行為の必然性」を支えてはいない。

 一般的な解釈は、確かにわかりやすい。むしろあまりにわかりやすいとも言える。だが、論理的強度が足りない。引剥ぎという行為の意味について、確かにそうだと感じられる説得力がない。

 そして何より、そんな小説はちっとも面白くない

 だがこうした論理による「羅生門」理解に納得しがたい最も大きな理由は他にある。

 一般的「羅生門」理解では、重要な点の解釈が未解決なまま放置されてしまうのだ。それは何か?

 こういう訊き方はいささか無茶振りだ。だが一般的解釈を疑え、というのはそういうことなのだ。

 「羅生門」では明らかに意図的に書かれていて、読者は明らかにそのことが容易に腑に落ちないはずなのに、そのことの意味が一般的「羅生門」解釈には組み込まれていない、重要な小説要素は何か?


 気になることはいくつもある。

 なぜ突然フランス語が使われるのか?

 なぜ「作者」が登場するのか?

 なぜ下人が一場面だけ「一人の男」と表現されるのか?

 だがこれらの疑問は些細なことだ。大学生だった芥川が技巧を凝らそうと工夫したのだろう、というくらいで看過して良い。


 なぜ「羅城門」が「羅生門」と書かれるのか?

 「羅生門」とも書くのだ。そこに「生死がテーマだから」などと説明するのはいたずらに理屈をこねているに過ぎない(しかも解釈できてしまったし)。


 下人の行方はどこ?

 ある意味ではわからなくてもよいのだが、わかる、とも言える。

 「羅生門」が最初に雑誌に載ったとき、最後の一文は「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。」だった。芥川は下人の最後の引剥ぎを、盗人になる決意として描いているのだ。

 それを後に「下人の行方は、誰も知らない。」にしたからといって、そこまでの作品の論理が全く変わるわけではない(もちろん、重要な変更が全体の解釈の変更を要請するケースがありえないとは言わない)。

 少なくとも「行為の必然性」は変わらない。それに対する作品全体でのメッセージがいくらか変わることがあるにしても。

 だからまあ何となく余韻をもった終わり方にしたかったのだろう、くらいでいい。


 「にきび」は?

 これは確かに解決が必要な問題だ。それは、とにかくそれが意味ありげだということに拠っている。繰り返し言及される「にきび」はどうみても単なる生理現象以上の何かだ。とりわけ結末で老婆に襲いかかるときににきびから手を離すことには、明らかに何らかの意味がある。

 「にきび」は何を表わしているか?

 だがこのように問うと、「生活が荒れていることを表わしている」などと焦点の定まらないことを考えてしまう。

 そうではなく、ここでは「にきび」を「象徴」と捉えることが必須だ。

 「象徴」とは何か?

 「象徴」という言葉を誰でも知っているだろうが、それを次のように明快に答えることは難しい。

ある具体物がある抽象概念を表わしていると見なされること

 「鳩は平和の象徴だ」というとき、「鳩」という具体物は「平和」という抽象概念を表わしている。

 もちろん文脈によっては、鳩が単なる鳥類の一種である鳩そのものでしかないこともある。だが「平和式典」などのニュース映像で青空を背景に飛ぶ鳩の群は、それが「平和」への祈念を表わしているという約束が放送者と視聴者の間で成り立っている。そういう了解が表現者と享受者の間に成り立っているとき、それは「象徴」と見なされるのだ。

 小説などの虚構では、作者がそれを「象徴」として描くことが意図的であるかどうかはともかく、読者がそれを「象徴」として捉えることはある。「羅生門」の「にきび」などは、具体物として読むべきではない。「烏(カラス)」は「荒廃」や「不気味さ」だろうし、「きりぎりす」は「秋」であり「時間」だ(きりぎりすが姿を消すことで時間の経過が表現されている)。

 では「羅生門」における「にきび」は何の象徴か?

 引剥ぎの実行にあたって手を離すのだから、それは「迷い」の象徴だといえる。

 あるいはここまでの「一般的解釈」からすれば「良心」「正義」「道徳」あたりか(それこそ「モラル」だ)。そこまで心にあった「モラル」から手を離して引剥ぎをするのだ。

 あるいはそれを「若さ・未熟」などと表現することもできる。下人は大人になったのだ。

 つまり「にきび」は従来の一般的解釈の枠内で解決が可能だ。


 では何が?

 まだ重要な未解決要素とは何か?


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