2022年6月15日水曜日

羅生門 5 一般的解釈

 「この小説は何を言っているのか(主題は何か)?」を考えるために「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」を考える。謎だと言っているのだから「わからない」はずだが、まあ現状で言えるだけ言ってみよう、ということだ。

 さて、この問いには典型的な「答え」がある。

極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得たから

 これが「行為の必然性」に対する一般的な説明だ。

 これはどのようなことを言っているのか?


 まずは「極限状況」を構成する要因を二点に分けて指摘してみよう。

 1.天災により都が荒廃していること。

 2.下人が主人に暇を出されていること。

 言わば社会的状況と個人的事情、二つが揃って「極限状況」を構成している。

 まず災害による人命の損失やそれにともなう人心の荒廃が語られる。仏具は打ち壊されて薪とされ、物語の舞台となる羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。そうした中で下人は失職して行くあてもない。それが「おれもそう(引剥ぎ)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた状況を招いている。

 こうした状況は確かに「極限状況」であると言ってもいいように見える。これが引剥ぎという「行為」を要請している。


 次に「老婆の論理」とは何のことか? 

 これが下人の引剥ぎの実行の直前の老婆の長広舌を指していることはすぐにわかる。

死人の髪の毛を抜くということは、なんぼう悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、みな、そのくらいなことを、されてもいい人間ばかりだぞよ。(略)せねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。

 この老婆の台詞の論旨を、よく「悪の容認の論理」などと言う。「悪いことをしても許される」という趣旨の主張だ。


 これで下人が引剥ぎをしたわけは、すっかりわかってしまった。「やらなければ死んでしまう状況に置かれた下人が、やってもいいという理屈を得たから」なのだ。

 だとすると、「羅生門」の主題はどのようなものだと考えられるか?

 「行為の必然性」という具体レベルから、「小説の主題」という相対的に抽象度の高い問題に繋げるという抽象化の能力は、国語力にとどまらない重要な思考力の一つだ。

 どのように表現したら良いか?


 課題の回答には「善悪の判断」といった表現が多かったが、「善悪の判断」がどうだと言っているのかを表現したい。

 同様に多かったのが「人間の身勝手さ・醜さ」だ。これはこの後で提示する回答と同内容だと言っていいだろう。

 さて、これが一般的になんと言われているかをYahoo!知恵袋やWikipediaで調べてみよう。

 いくつものQ&Aを読み比べてみると、共通した表現、頻出するワードがある。

人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム

 「羅生門」は「エゴイズム」を描いた小説だ、というのが一般的な「羅生門」理解だ。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」を「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得たから」だと考えることと、「羅生門」の主題を「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」だと考えることにはどのような関係があるか? 

 生きるために悪いことをしなければならない状況に置かれた下人が、生きるためには悪いことをしてもいいのだという老婆の言葉を聞いて、それをしたのだ、人間にはそうした悪=エゴイズム(利己主義)があるということをこの小説は描いているのだ…。

 つまり下人の行為、引剥ぎの必然性が、エゴイズムの発露として理解されているのだ。


 このように、「極限状況」と「老婆の論理」は、二つ揃って「行為の必然性」を支え、それが「エゴイズム」という主題を具現化しているのだというのが、一般的な「羅生門」の捉え方だ。

 この論理に疑問はないように見える。

 だが本当にそうか?


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