ところで「後期近代」は「再帰的近代」でもあるという。「再帰的」とは「跳ね返ってくる」ことだそうだ。わかりにくい。
どういうことか?
「再帰的」とは、そのことの結果が、それ自身の原因になるような構造を言う。結果が「跳ね返って」原因になるわけだ。
授業では「鶏が先か卵が先か」を例に出した。
卵が「原因」、そこから孵って育った鶏が「結果」だと言うことは可能だが、その鶏が卵を産むのである。その場合は鶏が「原因」、卵が「結果」だ。この構造は循環している。「再帰性」とは例えばこういう構造を言う。
上の「後期近代」はどうか?
束縛からの解放/関係の維持
では、解放されればされるほど、バラバラになってしまった不安から関係をつくらずにはいられない。「解放」という「結果」が、「関係の維持」の「原因」として「跳ね返ってくる」。
社会的な理想/一人一人の〈私〉の選択
「公正な社会」などの「理想」の実現には、みんなが同じ理想を抱く必要がある。そうして「個人」の権利が保障される社会では、それと裏腹の自己責任が一人一人にかかってくる。自分でそれぞれ違った「選択」をすることが求められてくるのだ。つまり「同じ」であろうとすると「違う」ことが求められ、「違う」からこそ「同じ」であること求められる。
このように、近代化の運動による前期近代成立の「結果」が、今度はそれとは違った後期近代へと移行する「原因」となる。そのような循環構造を「再帰的」と呼んでいる。
時間のあるクラスでは最後の見開きで扱われている「問題」について論じた。
後期近代たる「現代」の我々は、〈私〉時代におけるデモクラシーという難題に直面している。
〈私〉は個の確立を目指すが、逆に、デモクラシーは集団の形成を必要とする。相反する方向性が「問題」を生む。
そうした「問題」を、本文で挙げられているいくつかの問題、あるいは前回の衆院選でいえば「ジェンダー平等」の問題、今回の参院選後なら「改憲」問題といった具体的な問題にあてはめて考えることができるだろうか?
評論が「読める」というのは、ある意味では、抽象的に論じられている事柄が、どのような現実と対応しているかの見当がつくということだ。小説の読解が「具体」から「抽象」を目指すのに比べ、評論の読解は「抽象」から「具体」を目指しているとも言える。
授業ではいくつかの班の発表を聞き、いずれも適切に問題を捉えていると感じた。本文で論じられている「問題」と現実の「問題」、両者が適切に捉えられ、かつその対応が適切に捉えられる必要があるのだ。
これは実に、入試の「小論文」のテーマっぽい課題だった。
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