2023年9月19日火曜日

記号論・言語論 13 どちらが先か

 言葉と表象、どちらが先か?

 結論は、示せる。みんなが納得するような結論が。

 その結論に至るために最後の謎かけをした。

鈴木 言葉が先で表象が後。

山鳥 表象が先で言葉が後。

 どちらが正しいわけでもない。どちらも間違っている


鈴木 言葉がなければ表象はできない。

山鳥 表象がなければ言葉は生まれない。

 これは、どちらも正しい。


 二つの見解を両立させるとしたら、結論は明らかだ。

 どう考えれば良いか?

 

 どちらが先でもない。同時なのである。

 言葉より先に表象はなく、表象を伴わない言葉もない。

 表象をともなわない発声は単なる無意味な音声だ。それは「言葉」ではない。

 表象が成立したときは、そこには既に出来合いの名称であれ仮称であれ、「言葉」が貼り付けられている。

 言葉と表象が結びついたときにそれは「言葉」になるのだから、それは「同時」にしか成立しない。


 まだ納得できない人がいるだろうか?

 例えば名前がついていない新種の鳥が発見されたとき、名前はないがそれは認識されている。つまり表象はある。どうみても「ソレ」は認識されており、ソレが「表象」となってから名付けが行われるはずである。同時ではない。明らかな前後がある。

 山鳥派からのこうしたもっともな疑問にどう答えたらいいか?


 この場合は「ソレ」という名前がついているのだ。「名前をつけるべき対象」が表象された瞬間、同時に「名前をつけるべき対象」という仮名がついているのだ。後で正式名称がつけられるとしても、それは単なるラベルの張り替えでしかない(この論点に対して、授業中にこのように的確な答えを瞬時に返した人たちは何人かいた。素晴らしい)。

 表象は言葉と同時にしか成立しない。言葉がない前は、「まだ名前を持たないもの」としてさえ認識されていないのだから言葉より前に表象は存在しないのだ(もちろん物理的実体はある。だが認識の中に「表象」としては存在していない)。

 例えば新種の鳥が発見されて、これから名前をつける場合は「新種の鳥」という名前がついている。それは「カラスでも雀でも孔雀でもペンギンでも…でもない鳥」である。つまり言葉による差異化によってはじめて「新種の鳥」は存在するようになる。言葉がなければ「新種の鳥」という表象は存在しない。それは「カラス(みたいな鳥)の、とある個体」にしか見えていないはずだ。


 鈴木の「言葉がなければ犬と猫の区別がつかない」も同じだ。

 言葉がなくても犬と猫を区別できているはずだと思う人は、言葉のない状態を本気で想像していない。

 もちろんそこにいるその小動物は認識できている。だがソレを「犬」として認識し、別のアレを「犬」ではない「猫」と認識することはできない。そこにはあれこれの個体があるだけだ。個体差はある。だがそれは「犬」と「猫」の差ではない。「犬」と「猫」の個体差は大きいが、チワワとセントバーナードの個体差も大きい。

 言葉がなければすべては「そういう個体」でしかなく、「犬」と「猫」を区別するためには、上のような仮名の想定も含めて、名付けが必要なのだ。


 ソシュールはもともと、実体が先にあってそこに名前をつけたのだ、という「カタログ言語観」に対抗する言語観を提唱した。鈴木孝夫や内田樹はそうしたソシュールの言語論の革新性を強調しようとするあまり、つい「言語が先」と口走ってしまう。

 一方で、そういう言語学者の表現を胡散臭く感じる認知学者の山鳥は「言葉の前に表象はある」と言いたくなる。

 だが時間的な後先を言おうとすると、どちらも怪しくなる。


  そしてまた、同時にどちらもが単独で先に「ある」のも確かだ。

 子供は言葉を発明するのではなく、大人の使う出来合いの言葉を真似し、その使用法の誤りを正されながら言葉を習得していく。その時、子供の認識も、既にある言葉の分節化の枠に沿って切り分けられていく。山鳥の「範疇化」も、山鳥が言うように子供の心が主体的にそれを行うのではなく、言葉がそれを主導する。

 だが同時に、完全に既存の言葉が分節する枠に沿ってしか人間の認識の「範疇化」が進まないのだとしたら、言葉が変化することもあり得ない。既に分節化された枠組と、現実に対する認識の間にズレがあると感じるからこそ、新しい言葉が生まれるのだ。

 確かに、言葉は認識より先にあるが、また、まだ言葉のないところに新しい認識の芽は萌え始めている。それを山鳥が「心のはたらきが先」と言うのならそれは間違ってはいない。

 どちらも、可能性としての「言葉/表象」は相手より先にありうるが、それらが結びつかなければ真に「言葉/表象」にはならない。


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